幻の尊氏包囲網 太平記其四二

 さて、吉野に自らの王朝を開いた後醍醐天皇は、結果的に尊氏包囲網が出来上がっていることに気づいている。南に後醍醐の南朝と伊勢の北畠親房、北に恒良親王をいただく新田義貞、東に北畠顕家、西に九州の菊地党、といった具合である。尊氏の和睦提案に乗って、比叡を下り京に戻った時からこれを意図していたとは思えないが、1336年の12月に京を抜け出す時には、これを考えていた可能性はある。

しかし実態は、北陸の金ケ崎城にある新田勢は足利方の斯波高経・高師泰に攻められ防戦一方で、城内の食料が欠乏して死人の肉を食って飢えを凌いだと伝えられるくらいの悲惨な状況で、九州の菊地党は多々良ヶ浜の敗戦から戦力を回復しておらず、また北畠顕家は未だ奥州にあり簡単には動けない状況で、とても包囲網とはお世辞にも言えない。

それと新田義貞。後醍醐天皇が、親書を送れば、あれだけサクッと冷たく切り捨てた義貞が喜んで京に向かって進軍を開始するとか、後に美濃まで攻め上がってくる北畠顕家と連携して足利軍と対峙するとか、それを無邪気に思っていたとしたら信じられない事だが、これは、この当時の貴族たちの普通の発想なのか、後醍醐特有の楽観主義というか極自己中心主義のなせる業なのか。

「権威は即ち権力であるという事は無い」と、冷静に考えればこの当時の人達も分かっていた筈だが、歴史上、何故か混同してしまう人達がしばしば現れるのは、それが人間というものの性だからなのかもしれない。


実際のところ、義貞は京に向かって進軍もしていないし、美濃へ向けて北畠顕家と連携しようと動いた様子も無い。当時の義貞に、それを行うだけの勢力は既に失われている、というのが実態なのだが、また義貞自身も、
13373月に金ケ崎城が落ちて恒良親王が足利方に捕らわれるまでは(この時、同行した尊良親王は金ケ崎城で自刃している)、吉野の後醍醐天皇、京の光明天皇=足利尊氏に対抗して、第三勢力として北陸の恒良親王=新田義貞という体制を構築して、独自の存在感を持たせようとしていた、とも考えられる。義貞が、後醍醐天皇から切り捨てられた反動として、そうした第三勢力という発想を金ケ崎城落城後も持ち続けていたとしたら、後醍醐天皇主導の足利尊氏包囲網に無条件に乗ってくる事は無かったと思う。

最後に北畠顕家。13378月に奥州から白河の関を越え、12月には鎌倉を攻めて足利義詮を敗走させ、13382月に美濃の青野ヶ原で高師直等の足利軍と激戦を繰り広げ、一旦、伊勢、大和へ転進した後、5月に和泉で討ち死にする。惜しむらくは、この人に軍事的才能以上の政治的才能が見出せないことだ。尤も、親父の北畠親房に頭を押さえつけられ、お前は足利方と戦っていりゃあそれで良い、という事で、政治的才能もへったくれもなかったのかもしれないが、もし、13385月に討ち死にする直前に書いた上奏文(民の租税を軽くし、地方に徳のある政治を行い、朝廷での遊興を禁じ、政治に専心しない公家は罷免する等をうたっている)に見られるような政治的信念をもって南朝の舵取りが出来ていたら、足利幕府の在り様は少しは違ったかもしれない。

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