振り回される尊氏 太平記其四一

 1336年秋、足利尊氏は比叡の後醍醐天皇との戦いに疲れている。清水寺願文で俗世を離れたいという願望を吐露しながらも、引き続き戦いの最中にある。一方、後醍醐は、次第に劣勢となる戦いの中で追い詰められて、なんとかこの状況から早急に抜け出したいと考えている。

尊氏、後醍醐を取り囲む情勢も、軍事的膠着状態にあり双方共に決定打に欠け、先の見え難い状態に、双方の辛抱もそろそろ限界に近付いている。

この状況下で、まず尊氏が動く。尊氏は後醍醐に、「私が帝の勅勘を蒙り謹慎していたところ、新田義貞、義助が日頃の鬱憤を晴らそうと戦いを挑んできたために、天下を乱す事になってしまった。もし、帝と朝廷が京にお戻りになるなら、喜んでお迎えし、過去を問わず、官位と所領を元に戻し、政は公家方にお任せする。」というサービス・トーク満載の和解文書を、浄土寺の忠円僧正を通じて送るのだ。すると後醍醐は、これを渡りに船と、比叡山を降りて京に戻ることをさっさと決断する。

新田義貞はあっさり切り捨てられ、北陸に逃げざるを得なくなる。この時、後醍醐は義貞の不満をなだめるためか、自らの血統の保険のためか、子の皇太子恒良と親王尊良を義貞に同行させるのだが、この二人皇子も後に、あっさり切り捨てられる。


こう易々と物事が運ぶとは、尊氏にとっては、あれ?と拍子抜けするくらい意外な事だったかもしれない。本来なら、後醍醐のこうした行動は、裏を疑ってかかるべきだし、尊氏もそれは考えたろうが、とにかく、この膠着状態を何とかしたいという思いが先に立ってしまったと言うべきだろうか。

 

その年109日に後醍醐は都に戻る。が、戻ってみたら、後醍醐天皇たちは意外にも厳しく行動を制限され、ほぼ軟禁状態となる。尊氏にとってこれは、放っておけば何を仕出かすか分からない後醍醐に対しての当然の処置だっただろうが、常に物事を自己中心に考える後醍醐にとっては、乞われたから、わざわざ戻ってやったのに、これは何事か、という事で、この状況に不満を募らせた後醍醐が早くも京からの逃亡を企て始めたのは当然だ。

尊氏にとっては、政を公家に戻すといっても、武家のことは武家が決める、という事は、鎌倉時代から培われた武家にとっての常識だったろうし、後醍醐は政を公家に戻すという事をそのまま文字通り受け取ったという事で、この辺りの後醍醐の日本を丸ごと統治するという執念を、尊氏は甘く見ていたという事かもしれない。この楽観姿勢は尊氏本来のものだが。

11月、後醍醐は新帝光明天皇に三種の神器を授与すると、自らは太上天皇となり、阿野廉子との間に生まれた成良親王を皇太子として立たせ、尊氏を一応安心させた上で、密かに京を逃れる。この時点で、後醍醐が逃げる先は支持勢力が引き続き存在し、京からの攻撃を防ぎえる地の利を持つ吉野しかなかった。

 

尊氏はそう簡単に後醍醐が京から逃亡を図るとは思っていなかったろうが、逃亡されたところで、光明天皇をいただき、新田義貞は北陸に逃れ、足利軍を脅かす朝廷側の軍事勢力もほぼ壊滅している状況ではさしたるダメージも無く、やっぱりやられてしまったか、くらいの感覚だったと思う。この後も続く世の混乱を考えれば、尊氏という人間は、やっぱり人が好いというか、腋が甘というか。


結果的には、尊氏は、尊氏に限らず後醍醐の周囲にいた人間たちは、その皇子達、足利方の人間、後醍醐方の人間も含め、後醍醐天皇に振り回され、その挙句に南朝というものが成立し、この後しばらくの間、この国を混乱のうちに留めることになる。

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