やる気を失った尊氏の清水寺願文 太平記其四〇
1336年5月の湊川の戦に勝利した足利尊氏は、京に進軍するが、その後数か月にわたって比叡山を本拠とする朝廷軍との攻防戦が繰り広げられる。
この攻防戦で、朝廷方は名和、千草等名だたる武将を失いながらも、その戦いは一進一退で、足利方が優勢に戦いを進めながらも決定打に欠ける、という状況になっていた。
6月になると、この状況を打開するために、尊氏は光厳上皇と豊仁親王を伴って、陣を石清水八幡宮のある男山から東寺に移す。この頃尊氏は、比叡山をなかなか落とせない弟直義に苛立ちを見せたり、陣を置いていた東寺に攻め寄せる新田義貞の挑発に乗って一騎打ちに出ようとするところを陪審たちに止められたりと、精神的にいささか安定を欠く状態になっていた。
この世は夢のごとくに候 尊氏に道心給ばせ給い候て・・・
とくと遁世いたしたく候 今生の果報に更えて後生たすけさせ給うべく候
こんじょうの果報をば直義にたばせ候て 直義を安穏にまもらせ給い候べく候
「現世の仕事に興味が無くなったので引退したい。ついては引退後の人生の平穏をお願いします。後は直義が継ぐので、現世での果報を直義に与えてください。」というような感じだ。
前年末の箱根竹之下の戦い以来の休む暇もない連戦に加え、九州落ちという苦境も味わい、ようやく京を奪還したがなかなか最終的な勝利が見えない、という状況の中で、尊氏は精神的にかなりまいっていたと思う。更に、再び後醍醐天皇方に京から追われる可能性もある、という恐怖感。
尊氏は、窮地に陥った時の瞬発的な精神力は強いが、いかんせんそれが長続きしない。
だから、早いとこ後醍醐天皇と手打ちをして、自分はさっさと楽隠居を決め込もうと動き始めるのも、尊氏の心のありようを考えれば当然と言える。
源頼朝や後世の信長、秀吉、家康なら、まずは比叡の後醍醐天皇を徹底的にたたくか、がんじがらめにして動けないようにしてから、手打ちをしようと思うのだろうが、この辺りの非情なまでの徹底さに欠けるのが尊氏の弱さだ。
この弱さの故の中途半端な行動が、南北朝という、訳の分からぬ混乱した世の中を作る大きな要因となったことは間違いない。
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