湊川の戦い 尊氏の意図通りに戦いは展開した 太平記其三九

 「足利軍を敢えて京に引き入れ、補給路を断って殲滅する。」という献策が後醍醐天皇に容れられなかった楠正成は、頼山陽の詩にもあるように「策を帝閣に献じて達するを得ず。豈生還を期せん」という事で兵庫の北、会下山に布陣する。この時の兵力は千にも満たなかったようだ。

戦いは、知られているように、兵庫の和田岬に布陣する新田義貞軍を、海から攻める尊氏が船団を二手に分けて、一手を東に陽動、退路を断つと見せかけ、新田軍を東に移動せしめることで、新田軍と楠軍を分断する形で尊氏軍本隊が和田岬に上陸、山陽道を東に攻める直義軍と呼応して楠軍を殲滅し、新田軍を京へ向け逃走させる、ということになる。

 

ここは太平記の名場面の一つで、楠正成、正行親子の桜井の別れや、楠正季の七生報国みたいな逸話が繰り広げられ、滅びの美学が謳われるという事になるのだが、楠正成という人物は、ここで簡単に死を決意してしまうようなタマだっただろうか。

この時点では、自分を引き立ててくれたという恩義を感じている後醍醐天皇は健在だ。そして朝廷側は、数的にも、勢い的にも足利軍に劣勢だが、まだ足利軍と戦える兵力を有していた。であれば、正成としては、この和田岬・湊川の戦いで敗れても、暫時撤退しながら足利軍を京に誘い込み、帝を比叡に移したうえで戦いを継続するという事は考えていた筈だし、撤退戦が失敗したとしても、山間部に逃げ込み得意のゲリラ戦を展開しつつ時期を待つ、という事も出来た筈だ。


しかし、楠正成は湊川で敗れ死ぬ。これは、足利尊氏の、どうしてもここで正成を討ち取る、という決意の結果だったなのかもしれない。

北条の六波羅探題を滅ぼし、足利尊氏も楠正成も京にいた1333年頃は、尊氏にとって正成は、喧嘩の強い田舎のおっさん以上のものでは無かったような気がする。しかし、1335年の中先代の乱の後、尊氏が、鎌倉から京を目指して攻め上り、京の市街戦を経験し、兵庫での戦いを経て九州に落ちる過程で、尊氏は正成という人物を様々なルートから得る情報で深く知ることになったのではないだろうか。情報分析は尊氏の得意とするところだ。その結果、尊氏は、朝廷軍で恐るべきは新田義貞ではなく楠正成であり、正成を討ち取り、楠軍を壊滅に導くことが対朝廷戦略上重要であるという認識に至る。

だから、湊川の戦いで、楠軍が会下山に布陣しているのを船上から確認するや、今が正成を孤立させて討ち取る千載一遇のチャンスという事に、優れた軍略家である尊氏はすぐ気付き、山陽道から攻めてくる足利直義軍と和田岬に上陸した足利尊氏軍は呼応して、正成の逃走経路を塞ぐように包囲戦に持ち込むのである。その結果、逃げ場を失った正成は、遂に死を選ばざるを得なくなった。まさに、尊氏の意図通り戦いは進められたというのが、この湊川の戦だったと言えるかもしれない。

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