楠正成の戦術から見える異なる価値観 太平記其三八

 13363月の多々良浜の戦いで勝利し。太宰府に拠点を置いて京への進軍を準備していた足利尊氏は、426日に大宰府を発ち、28日には船で瀬戸内海を東上する。51日厳島神社に着くと3日間の参籠の後、再び船で東へ向かい、57日には鞆の浦に到着。ここで、弟直義と分かれて、直義は陸路、尊氏は帰路で東に向かう。15日に直義軍は備中福山城を落とすと、この報に接し、備前美作まで足利迎撃軍を進めていた新田義貞は、摂津兵庫まで撤退する。

「新田義貞に首を足利尊氏の首に挿げ替えてしまおう」という献策が却下された後、吉野に引きこもっていた楠正成は再び京の朝廷に呼び戻され、兵庫への下向を後醍醐天皇から命ぜられる。

ここで、足利勢が兵力・戦意共に朝廷方を上回っていることを認識していた正成が朝廷に諮った作戦は、一旦、朝廷は比叡に立ち退いて足利勢を京に引き入れ、これを包囲して兵糧の供給を断ち、足利勢の戦意が萎えたところを、北から新田、南から楠で挟撃して尊氏を討ち取るというものだった。当時の状況を考えれば戦術的には最上と思われるが、これも戦わずして京を捨てるなど以ての外、と後醍醐天皇を囲む公家たちに入れられず、正成は死を覚悟し兵庫へ下向するという事になる。


ここに、楠正成たち親天皇の
新興武家勢力と、天皇と公家たちとの価値観の違いがある。

正成にとって、天皇とは天皇個人、後醍醐天皇であって、権威は天皇個人と皇族という人格に帰属するものだ。だから、天皇の玉座があり、内裏があり、御所がある京という町も戦略上の一拠点くらいにしか思っておらず、そのブランド性に重きを置いていない。

一方天皇とそれを囲む公家たちにとって、権威は天皇・朝廷・御所・内裏・京という人格と機構と場所のセットに帰属するものだ。

では、足利尊氏はどうだったかというと、高師直が言ったといわれる「王だの院だのは必要なら木彫りの像で作り・・・」(史実では無いという事になっているが、当時婆娑羅と呼ばれていた武家には、このような感覚はあった。)までは行かないが、天皇個人の人格はともかくとして、天皇というシンボルと機構と場所があれば良い、と思っていたんじゃないかと思う。そういう意味では、保守的な価値観の多くを引きずっていた。13366月、兵庫で新田・楠軍を打ち破った足利軍が京へ肉薄すると、後醍醐天皇が尊氏の手を逃れて京から比叡に落去するが、この時、尊氏は躊躇なく光明天皇を即位させ、シンボルを存続させている。後に,後醍醐天皇が吉野に逃亡した時も、厄介な方が遠くに行ってくれた方が面倒がなくて良い、と言ったくらいだ。尊氏が京に近い丹波の生まれだったことや(諸説あるが)、側近に公家の家系を持つ上杉氏がいたことで、感覚として、「権威は天皇・朝廷・御所・内裏・京という人格と機構と場所のセットに帰属する」という事が分かっていたのかもしれない。だから、尊氏に正成のような戦術的発想は無い。


この後、尊氏は幕府を鎌倉ではなく京に開くことになる。後の生涯が京という町に拘泥させられることになるのは、勿論、京を中心とする畿内・西国の軍事的不安定という情勢が第一の理由と思うが、上記のような尊氏のメンタリティーも一役かっているような気がする。

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