楠正成 生き残りの献策 太平記其三七

 足利尊氏が九州で勢力を盛り返している間、京の後醍醐政権内で、一つの騒ぎが持ち上がった。楠正成の献策である。

正成は後醍醐天皇をはじめ居並ぶ公卿衆を前にして、

「新田義貞は、北条氏の鎌倉を落とし、また朝廷軍の総大将であるにもかかわらず、未だに天下の諸侯の人心を掌握できないでいる。一方の足利尊氏は、賊軍の汚名を着せられ、幾度か戦に敗れ窮地に立たされたとはいえ、九州で勢いを盛り返しつつあるように、その赴くところ、多くの武士が付き従い、士気も高まっている。

許されるなら、正成自身が九州筑紫に赴き、朝廷と和睦するように尊氏を説き伏せる。その際に、義貞が同意もせず、逆に邪魔建てをするようなら、これを討ち取るのも已むを得ぬと考える。」

と言上したというのである。


これが史実かどうかは別として、この時の正成の本音だったのだと思う。

後醍醐天皇の自分本位の政策に、武家たちの心は既に建武新政権から離れてしまっている事は自明で、最強の朝廷軍である北畠顕軍が奥州に帰ってしまった現状では、九州で勢いを盛り返した足利尊氏とまともにぶつかれば、恐らく勝ち目はないという事を、当然のことながら正成は見通していた。

この時に上記の献策以外に正成がとれる選択は、

  朝廷軍として新田義貞の下で戦う

  後醍醐天皇を裏切って足利方につく

  どちらにもつかず、領国の河内に戻って、状況を静観する

しかない。

②については、正成が望んだとしても、足利方がこれを受けいれない可能性が高い。この時の足利軍は赤坂砦・千早城攻めや先の京の攻防戦で正成に痛い目にあわされ、恨みを持っている武士たちも多く吸収されていて、これが軍内の不和に繋がる可能性がある。尊氏にとっても、その人柄、軍略の才を評価しながらも、正成はどうしても味方に引き入れたいと思う武将ではない。尊氏軍には既に朝廷軍と十分に対抗できるだけの戦力が揃っており、人材という面でも、高兄弟、斯波、吉良、今川、佐々木と綺羅星のごとく武将が揃っている。正成タイプの悪党上がりという意味では、悪党ではなかったかもしれないが赤松円心という似たタイプもいる。

③については、河内はあまりに京に近いので、足利尊氏軍・朝廷軍双方から帰趨を明確にせよと求められ、結局①か②の選択になるか、どちらにもなびかぬ場合は、戦後、その勝者から攻められ滅ぼされる可能性が高い。

 

結局、正成には、好むと好まざるとに係わらず、①以外の選択肢は無かったという事になる。しかし、①を選択した場合、かなりの確率で滅ぶことになる。だから、正成には、自らの生き残りのためには、新田義貞の首を足利尊氏の首に挿げ替えるしか他に方策はなかったと言える。

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