武家が建武新政の枠外に放り出された尊氏の京進軍 太平記其二九
1335年12月、箱根竹ノ下で新田軍を西へ敗走させた足利尊氏は、三島で弟、足利直義と合流すると西へ、京に向かって軍を進める。
ここで、いったん鎌倉に引き返し、鎌倉を中心として関東の支配体制を整え、軍事的圧力を行いつつ、再度朝廷との尊氏復権交渉に入るという手もあった筈だし、おそらく直義はそう主張したのではないかと思う。
しかし、戦いの勢いという事を熟知していた尊氏が、躊躇なく京への進軍を決断したのは当然だったともいえる。
それに、京に行かなければ後醍醐天皇との和解も無い、という事も尊氏にはあった。対決が軍事的であろうがなかろうが、最終的に尊氏は後醍醐天皇と和解したいと思っていたし、尊氏の武家統治構想には是非ともそれは必要だった。
武家支配が関東を中心とする地域だけだった鎌倉幕府創建当初ならいざ知らず、鎌倉時代を通じて武家支配が全国区に広まった状況下では、朝廷を巻き込んで京を直接その統制下に置かなければ武家の統治も為しがたいという事を、既に尊氏は気付いていたのではないかと思う。一方、直義は足利政権を鎌倉幕府の延長線上で、つまり朝廷から独立した形で武家の統治を行うという事を考えていた筈で、ここが後々、この兄弟の悲劇的な訣別の一つの要因になる。
尊氏の思惑がどこにあろうが、京への進軍は、『足利尊氏VS後醍醐天皇』という対立図式を図らずもはっきりと天下に明示する事になる。この図式の明示こそ、建武の新政という枠の中での領地争議や権力闘争に明け暮れていた武家たちを、建武の新政という枠の外に放り出し、南北朝につながる新たな抗争の図式に塗り替えていく契機となる。
尊氏軍が京の包囲網を作る1336年1月を待たず、西国を中心に武家たちの朝廷勢力からの離反が始まる。太平記の記述によれば、四国香川の細川定禅をはじめ、丹波、備前、備中、備後、越前、越中、加賀、伊予、長門、安芸、周防、出雲、伯耆・・・と、諸国の武家の、『足利尊氏VS後醍醐天皇』という対立図式にのっかった離反騒動は西日本を中心に瞬く間に広がるのである。
1336年1月、朝廷側は、瀬田に千種忠顕、名和長年、結城親光、宇治に楠正成、淀に新田義貞、山崎に脇屋義助を配し、足利尊氏軍を迎え撃つ体制を整える。
一方、足利尊氏軍は、瀬田へ足利直義、高諸泰が兵を進める。尊氏は、おそらく楠正成との正面対決を避けるためだったろう、宇治方面から大きく迂回し木津川、宇治川、桂川が合流する大渡へ兵を進め、1月10日に脇屋義助との激戦の後、ここを突破、1月11日に京に入った。
既に諸国の離反騒動を察知していた後醍醐天皇は、戦況不利と見るや尊氏の京侵入に先立ち、比叡山に落去するのだが、これは後醍醐天皇の長く続く尊氏との対決の始まりに過ぎない。諦めない後醍醐天皇が創り出す南北朝という複雑怪奇な時代の序章に過ぎない。
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