後醍醐天皇との軍事対決を決意する尊氏 太平記其二八

 さて、浄光明寺にひきこもり、様子見を決め込んだ足利尊氏だが、京から攻め下ってくる新田義貞の尊氏追討軍を迎え撃つべく鎌倉を出立する足利直義、高師泰に対して、

「三河矢作から西に進むな。三河は足利領だが、西に進めば反逆の軍となる。」

と言い渡したという。

これが本当かどうかはともかくとして、尊氏としては、矢作川で朝廷軍を止めることで、逆に朝廷方に軍事圧力をかけつつ時間を引き延ばし、最終的に後醍醐天皇との和解交渉に持ち込みたかったのではないかと思う。トランプ大統領の言うディールである。

しかし、13351125日、直義、師泰軍は矢作川防衛ラインを突破され、その後は押しに押されて、125日には手越河原の戦いでも敗れ、太平記によれば、這う這うの体で鎌倉に逃げ帰り、偽の尊氏追討の綸旨まででっちあげて、尊氏の出陣を促すことになる。

いかにも策士直義らしいやり方だが、これはおそらく太平記の創作で、歴史作家によって、尊氏出陣に至る経緯は様々だ。例えば吉川太平記では、直義は箱根近辺で朝廷軍に抵抗していることになっていて、上杉重房が鎌倉に戻り、直義の窮状を訴え尊氏出陣を促すという事になっている。



それはそれとして、尊氏も戦況は刻々と知らされていただろうから、これは想定の範囲。

問題は、尊氏が何時出陣を決意したか、つまり和解交渉から軍事対決に方向転換したか、という事だが、矢作川の防衛ラインが突破された時点だろうと思う。

尊氏なら、矢作川を突破されてしまえば、あとは箱根で迎え撃つしかないことくらい分かっていた筈だ。ここも突破されてしまえば、鎌倉を守り抜くことは難しいことは、北条氏討伐の経験上、良く分かっていたから、出陣の準備は着々と進めていた筈だ。そうでなければ、手越河原の敗戦から3日後の128日に自ら軍勢を率いて(付き従った軍勢は2千人くらいと言われている)箱根の竹ノ下に2日後には布陣、尊良親王(後醍醐天皇の第一皇子)と新田義貞の弟、脇屋義助に率いられた追討軍を一気に打ち破ることなど出来るわけがない。

そして、直義軍と三島で合流するや、鎌倉に一旦引き上げる気配も見せず、敗走する新田軍を追撃する形で軍を西へ、京に向かって進めることになる。

浄光明寺でのひきこもりに始まり、直義の窮地を救うべく已む無く出陣に至る尊氏の行動は、後に歴史学者によって「賊名のがれの芝居」と言われる事になるが、そういう事より、この一連の動きは、「尊氏が後醍醐天皇との和解交渉を諦め軍事対決による解決を決意せざるを得なかった。」という、まさに南北朝時代の到来を決定づける重要なターニングポイントだったというべきだろう。

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