武家たちの嗅覚 太平記其二六

 三河の矢作で東から敗走してきた足利直義と合流した足利尊氏は、京から出立したそのままの勢いで東海道を東に進み、箱根、相模川と北条が引いた防衛ラインをいとも簡単に突破し、あっという間に鎌倉を奪還する。

 

この箱根と相模川の戦いで尊氏からもっとも厳しい場所を割り当てられた佐々木道誉が、尊氏に対して毒づきながらも、果敢に敵に向かっていく様子を吉川太平記は書いている。一方、太平記でも佐々木道誉の箱根、相模川での奮戦の様子は紙数を割いて描かれている。

今川、吉良、斯波等足利方諸将も奮戦しただろうに、ここで佐々木道誉にスポットライトが当たるのは、何故だろうか。



佐々木道誉は基本的に親後醍醐天皇と目されていた人物だが、情勢いかんでは態度を豹変させる、捉えどころのない鵺の様な人物というのが、その頃の評価だったのではないかと思う。これは後世、太平記や尊氏を描いたどの作家にも共通した認識だ。

その道誉がここで頑張るのは、この時の世の情勢が頑張らざるを得ない状況に道誉を追い込んだからだ。

 

尊氏の鎌倉進軍は、その時代の武家たちの帰趨の決めさせるうえで、一つの契機になった。

この時点で武家たちは、後醍醐天皇の新政権に「乗っかれた者」、「乗っかれなかった者」に分かれる。「乗っかれなかった者」たちは、当然の様に実質的に武家の棟梁と目された足利尊氏に形勢逆転の期待を向ける。

その尊氏が、鎌倉に兵を進めるということは、鎌倉での幕府開府も含め武家たちに様々な想像をさせただろう。

だから、新政権に「乗っかれなかった者」の中には、新たな恩賞チャンスを期待して尊氏に乗っかろうとする者が少なからず出てくる。そういう者たちは、当然、尊氏の目に留まろうと頑張る。

佐々木道誉は、どちらかと言えば新政権に「乗っかれた者」だと思うが、千種や名和、結城の様に新政権の主流派というようには見えず、また、道誉自身は新政権の先行きの危うさを感じ取っていたと思うわれる。つまり、乗っかれたまでは良かったが、どうもそのままじゃ不味そうだぞと思い、尊氏に恩を売っておこうという感じだったんじゃないかと思えば、背景は違えど、尊氏の目に留まっておこうという意欲は「乗っかれなかった者」たちと同じだ。

京を出た時に数百だった尊氏軍が、矢作に到達するころには3万に膨れ上がるのは、こうした事が背景だ。そういう意味で、そうした者たちの象徴として鵺のような存在だった佐々木道誉の奮戦がここで描かれているのではないかと思う。

 

この尊氏の鎌倉進軍は後の南北朝の決定的な端緒となるわけだが、私たちは結果が分かっているからそういう認識をするのであって、逆に考えると、後の「尊氏VS後醍醐」の図式までは思い描けぬまでも、後醍醐天皇のお墨付きを得る事なく、ある意味私的に進軍を行う尊氏に自分の運命をかけてみようという当時の武家たちの嗅覚は大したもんだと言わざるを得ない。

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