中先代の乱 窮地に陥った弟直義 太平記其二四
中先代の乱とは1335年7月に北条高時の遺児北条時行が、信濃で鎌倉幕府再興を目指し挙兵し、鎌倉にいた足利直義をあっという間に敗走させ、後、足利尊氏に奪還されるまでの約20日間鎌倉を支配した乱のこと。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって鎌倉を支配したことから中先代と呼ばれているそうだが、どうも後世のこの命名、今一ピンとこない。
それはそれとして、歴史にIFは無い、というが、どうしてもIFを連発してしまいたくなる時がある。
IF中先代の乱が起きなかったら。
IF直義が北条時行軍を破っていたら。
足利尊氏が鎌倉に下り、後醍醐天皇との確執の末に室町幕府を開く事は無かったかもしれないし、南北朝という時代も無かったかもしれない。
中先代の乱の背景は、言わずもがなだが、
・全国各地に散在していた北条親派の政権奪還の意欲が未だ十分に衰えていなかったことと、
・北条氏討伐の恩賞を巡って建武の新政府に失望した武家の間に溜まっていた不満の捌け口がどこかで必要だったという事だ。
だから、北条時行が乱を起こさなくとも、関東のどこかで必ず似たような武力蜂起は起こったと思うし、反乱軍は拠点としての鎌倉を奪還しにかかったという流れは同じだったと思う。
従って「IF中先代の乱が起きなかったら」の、乱がおきなかった可能性は薄い感じがするが、鎌倉から足利直義を追い出すまでには至らなかった可能性は十分にある。
「IF直義が北条時行軍を破っていたら」。
1333年12月、足利直義は鎌倉将軍府主帥に任ぜられた後醍醐天皇皇子成良親王を補佐する形で鎌倉に下り、る。鎌倉将軍府は建武新政府にとって関東の統治機関という位置づけで、直義はその執権という役割を担った。つまり、実質的な統治機関の長という事になる。
直義は、その性格からいって、将軍府に持ち込まれる領地問題などの訴訟沙汰を私情を交えず、一定の基準に従いてきぱきと裁いていったと思われるが、これが関東の武家たちに好意を持って受け入れられたかどうかは疑問だ。
太平記によれば、北条時行が挙兵をすると、たちどころに6千の兵が集まり、鎌倉を攻める時には5万余まで膨れ上がり、これに対する直義の軍勢は数千程度というイメージだ。数字に誇張はあるものの、ここまでの兵力差があったのは、直義側に加わるべき武家たちが、様子見を決め込んだという事もあったんじゃないかと思う。もし建武新政府側の武家が結束して北条時行軍にあたっていたら、時行軍を破らずとも、鎌倉を落とされずに済み、直義は鎌倉の防御を固めつつ京からの援軍を待つという事もあったように思う。
つまり、足利尊氏が朝廷との軋轢をものともせずに、関東に向けて軍勢を率いて行ったのは、
「弟直義が突然とんでもない窮地に陥ったため」
で、それが直義でなかったり、朝廷との調整を行うに十分な時間が取れれば、後醍醐天皇との確執の末に力ずくで幕府を開くことは無かった可能性はあったと思う。
この問題の最大のポイントは、尊氏にとっての弟直義への気持ち、と言えるかもしれない。
例えば「IF新田義貞が京に上らず鎌倉に居続け、鎌倉将軍府の執権になっていたら」
中先代の乱で、鎌倉将軍府がいかに窮地に陥ろうが、尊氏の鎌倉攻めは無かったように思う。
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