ボロを出さない尊氏 太平記其二三


人々の欲望が、実質的に制限を受けることなく自由に交錯する社会に、洗練された統治は存在しない。

13336月の後醍醐天皇による建武の新政開始から13357月の中先代の乱にかけての2年間は、武家と天皇を含む公家たちが自らの欲望の実現に向けて、新政に期待し、挫折し、失望し、欲望の実現の為に新たな行動を起こそうとし、その為に世の中の情勢を見極めようとした時期だったと思う。更に利害が一致した者が武家、公家の境を越えて結び合うので、余計複雑な様相を呈することになった。

この時期、最高権力者は後醍醐天皇だが、足利尊氏も後醍醐天皇に対抗しうる権力を実質的に握っていると目されていて、その二つの権力の周りに様々な欲望や思惑が渦巻いていたと言えると思う。
そして、この二つの権力は、決定的に両立しえないという運命にあった。源頼朝の時代なら、西国支配の朝廷と東国支配の幕府、という二大権力の大雑把な切り分けが出来たが、鎌倉時代を通じ、御家人領地の西国への拡大による御家人の全国展開、経済の拡大や貨幣経済の勃興による全国規模の流通が出来上がってしまい、もはや権力は全国支配を前提としないと成立しない状況にあった。

この欲望・思惑が渦巻く地は、勿論、京の都で、「この頃都にはやるもの」で始まる二条河原落書は、この時代の世相を色濃く映しているというのは、こういう事が背景だ。


さて、この時期、当の尊氏は何をしていたのかと言うと、目立ったことは何もしていないと言っても良いくらい、地味に過ごしている。
護良親王との政権軍事部門トップの座を争った権力闘争はこの時期だが、尊氏自身は、贔屓にされていた後醍醐の寵姫である阿野廉子に「護良さんに逆恨みされて困ってますねん。」くらいの愚痴はこぼしに行っただろうが、護良親王はずしの謀略に忙殺されていた感は全く無い。

では何をやっていたかと言うと、京に上ってきた武士たちの着到状に認定の印である証判を書き入れたり、寄進状を書いていたりする。寄進した先は、北野社、清水寺、石清水八幡宮、篠村八幡宮など都周辺に限らず、三島社、富士浅間宮、鶴岡八幡宮など関東の寺社にも及んでいる。
この時期、尊氏は着実に武家の棟梁たる地位を固め、また武家の地盤である関東での勢力を強化していく様に見えるが、尊氏自身、どこまで明確なヴィジョンに基づいてこの時期を過ごしていたのかは分からない。

唯、一つだけ言える事がある。尊氏は、この欲望・思惑が渦巻く時期に、目立ったことを何もしなかったが故にボロを出さずに済んだということだ。
建武新政府での官職をいたずらに求めることも無く、積極的に武家社会における権力強化をするわけでもなく、むしろ、のほほんと何もしなかったが故に、ボロを出すことも無く、鎌倉幕府討幕の時の武家からの声望と、後醍醐天皇を始めとする公家からの期待をそのまま維持する事が出来たんじゃないかと思う。
これは結果論として、尊氏にとってとってもラッキーな事だったと言わずして何と言おう。


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