尊氏と正成、悪玉VS善玉の図式か 太平記其二二
太平記というと、「悪玉足利尊氏VS善玉楠木正成」という図式もあるように思えるが、この二人が軸となって物語が展開する場面は、まず無いと言っても良いくらいだ。
1333年6月の建武の新政から中先代の乱が勃発する1335年6月までの約2年間は、討幕に参加した主だった武将たちが都に集まっていたので、朝廷に出仕していない尊氏と朝廷の記録書に出仕していた正成との接点はあまりなかったかもしれないが、何かの拍子でバッタリ出会うという事はあってもおかしくはない。
そのバッタリを、吉川太平記では、尊氏が石清水八幡での法要の帰りに正成の手の者に襲われたのを、正成が自分は知らなかった事として尊氏に陳謝に来るという形で、杉本苑子の「風の群像」では、対立関係にあった護良親王の手の者に襲われた尊氏を正成が助けるという形で書かれている。
で、どちらの場合も、正成は尊氏という人間の器の大きさに感服し、尊氏も正成の誠実な人柄に魅かれる、という事になる。
ところが実際は尊氏が正成をどこまで意識していたかというと、優れた軍略家以上の者とは見てなかったような気がする。まず家格が違い過ぎる。既に源氏の棟梁として、また実質的な武家のトップに君臨する者として認知されていた尊氏に対し、正成は北条氏との戦いで功成り名を遂げ朝廷に仕える身となったにしても、所詮は一介の地方武士に過ぎない。
尊氏は赤坂砦の戦いを経験し、千早城での奮戦振りは当然知っていた筈だから、正成の軍事能力の高さは理解していたのは確かだと思うが、それはそこ止まりの話だ。つまり尊氏にとって、正成は喧嘩が強い純朴なおっさん、くらいの感覚で、自分と同じ土俵に立っているとは全く思っていないということだろうか。戦上手という面から見ても、尊氏は新政府最大の軍事勢力を誇っていて、高師直を筆頭に、配下に有能な武将はいくらでもいた。
後に、尊氏は正成に戦において悩まされることは何度かあったが、いずれの場合も正成一人に決定的にやられたという事には至っていない。
一方正成は、自身尊氏同様状況判断に優れていた事は疑いようがないが、尊氏という人間を武家のリーダーとして、良い意味でも悪い意味でも、かなり強烈に意識していたと思う。
例えば、建武の新政発足時の領地分配時に、元々赤松円心が欲しがっていた播磨国が足利尊氏に与えられようとしたことがあった。有力軍事勢力であった赤松氏との軋轢が生じる恐れがあったので、尊氏はこれを辞退し新田義貞に譲ろうとする。この時、楠正成は義貞に播磨を譲り受けるべきではないと進言するのだが、結局義貞は進言を受け入れず、播磨を領地とし、結果として赤松氏を敵に回してしまうことになる。
こうした尊氏の処世をしっかりと見ていた正成は、尊氏の状況の読みの正確さ、将来を見越した遠慮深謀、人としての器の大きさ、そしてその結果得られる武家からの厚い信望をはっきりと認識していたように思う。だから、尊氏に対してもリーダーとしての信頼感はあるものの、天下を乗っ取る大悪人という意識は無かったのではないか。これが後に、尊氏が九州から京に攻め上ってくる際に、正成は後醍醐天皇に「周囲からの信望の薄い新田義貞の首を尊氏に差し出して、信望の厚い尊氏と和睦をするべき。」と進言したという逸話につながる。
つまり「尊氏VS正成」の図式は、「悪玉VS善玉」の図式というより、「時流に乗った者VS時流に乗り切れなかった者」の図式ということではないだろうか。そして、的確な状況判断ができる正成をして時流に乗り切れなかった理由は、既存の倫理観と権威への拘泥ということだ。言い換えれば、「尊氏VS正成」の図式は「無節操現状肯定系VS純粋理念系」の図式と言える。
ところで、「悪玉権力者VS善玉忠義の士」という図式に戻してみると、これは楠正成と真田幸村という武士世界の二大忠臣スターの生き様の構図だ。ただ、ちょっと違うのは、幸村が家康に歯向かうのは、悪玉徳川家康に対する遺恨という面が多分にあったのに対し、楠正成は悪玉足利尊氏に好感を抱きさえすれ遺恨は無く、そこに忠義を貫くという一本の意思によって戦う清々しさがある。これがこの二人の匂いの違いになっているような気がする。
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