護良親王の焦りと不運、どこ吹く風の尊氏 太平記其二一
1333年6月後醍醐天皇が京に還幸し、いよいよ天皇中心の御代が始まろうとするその時、護良親王は焦っていた。
大和の信貴山にいた護良親王のもとに、「北条氏も滅び天下静謐になったので、鎧を脱ぎ、元の剃髪の姿の戻り、比叡山の門跡の地位に納まることが望ましい。」という後醍醐の意向が右代弁ノ宰相清忠によって伝えられたからだ。当然、新政では部門のトップとして君臨するものと信じていた護良としては青天の霹靂としか言いようがない。北条氏討伐の役割が済んだら、もう用は無いとあっさり切り捨ててしまおうとする後醍醐も後醍醐だ。自己の理想に対し徹底した目的合理主義で臨む、ある意味怪物的な人間を父にもったということは護良にとって不運だったとも言える。
護良は後醍醐の意向に従うどころか、逆に、足利尊氏が後醍醐政権の奪取を狙っているという尊氏脅威論を押し出し、ごねにごねて征夷将軍の称号を得るのだが、これが最終的に護良の命取りになったと思う。つまり、護良は朝廷の権威で武家を統制することができると無邪気に信じていた可能性があり、それは致命的な時流の読み違いだったと言わなければならない。
当時既に、武家は鎌倉時代を通じて政治支配、統治能力を獲得していたし、荘園の支配・経営は武家の力なしでは成り立たず、金融・流通経済についても寺社や武家の勢力下に置かれようとしていた状況下、朝廷の力は限定的であって、その分権威も低下していて、朝廷の権威で武家を完全に抑え込めるなど不可能に近かった。
天皇の権威を復活させこの国の唯一絶対の支配者になろうと目論んでいた後醍醐天皇さえも、現実には武家を朝廷の権威で屈服させられるとは思ってもいなかった筈で、武家を官位で釣ったりして懐柔し、巧みに朝廷に取り込んで行こうと考えていたと思う。その意味で、権力欲を露骨にギラつかせない足利尊氏は使い勝手が良く、天皇の諱「尊治」から偏諱を授け、その時まで高氏と名乗っていたのを尊氏へ改名させたり、武家として一番の従三位の官位を授けたりして懐柔と取り込みを図っているわけだ。
そんな中で、尊氏への強い敵対心を見せる護良親王の存在は、再び京を戦禍にさらすことに繋がる可能性があったわけで、後醍醐にとっては厄介な存在だったと言える。
一方、足利尊氏は護良親王の露骨な敵対心に対し、それ相応の警戒はしながらも、表面的にはどこ吹く風と無関心を装っていたと思う。ここで、護良と露骨に敵対することは、尊氏とその一門にとって何のメリットも無い事くらい十分分かっていたし、そういう状況判断は尊氏の最も得意とするところだ。
太平記では、護良親王失脚を狙う尊氏が後醍醐天皇の寵妃である阿野廉子を通じ、護良謀反の諫言を後醍醐に吹き込むという事になっている。これを憂慮した後醍醐は、1335年3月、宮中の御会に事を寄せて護良を召し、その場で結城親光と名和長年に捕縛させ、後に鎌倉への流刑に処す。
しかし実際は、尊氏は殆どこれには関わっていないと思う。いかに後醍醐天皇の信頼を得、阿野廉子に贔屓にされていたんだとしても、皇族・公家にとってみれば一介の武家の諫言に、彼らがそう易々と動かされるわけはない。おそらくは、後醍醐と側近の畠山親房辺りを中心に仕組まれた事であり、尊氏としては、あれあれと言っている間に事が運ばれてしまった、といったところだろう。
この宮中のいざこざを、どこ吹く風と流していた尊氏は、この時ニヤリと笑ったかもしれない。
そして、さらなる不運が護良親王を襲う。後醍醐天皇が、流罪の地としては決して重くない鎌倉に護良を流してしまった事だ。後醍醐にとっては、それは我が子に対する精一杯の気遣いだったかもしれなかったが、その地に足利直義を送っていたことが後の中先代の乱で裏目に出るのだ。
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