尊氏なし 太平記其二〇
1333年5月22日北条一族が鎌倉の東勝寺で自害、鎌倉幕府は滅亡する。
そして後醍醐天皇が1333年6月6日に二条内裏に還幸すると、尊氏は六波羅探題討伐の功により従三位左衛門の督に叙された。これは武家としては当時最高位の官位で、上級貴族の仲間入りを果たしたというわけだ。因みに鎌倉を落とした新田義貞は正四位の下右衛門佐。
しかし、後醍醐天皇の新政府には尊氏の名は無い。寺社・公務・所領争い等の大きな訴訟を扱い新政権内で強大な権限を持つ記録書には武家からは楠正成、名和長年の名が、記録書で扱いきれない訴訟を扱う雑訴決断所には楠、名和、塩冶高貞、佐々木道誉の名があるが、尊氏の名は無い。そして内裏・御所の警護を行う武者所の頭人は新田義貞。ただ足利家の執事であった高師直の名が雑所決断所に見えるだけだ。
いわゆる「尊氏なし」と言われる状態だ。何故、尊氏の名は無いんだろうか。
尊氏は既に武家の頭領としての地位を確立し、総ての武家たちもそれを完全に認知されていたから、という訳でも無さそうだ。それは一重に尊氏の個人的な好みの問題であったと言って良いかもしれない。
基本的に、尊氏は堅苦しい宮仕えは嫌いだったんじゃないか、という事が最大の理由ではないか思う。それに、尊氏はおそらく後醍醐天皇の事が個人的に好きで、後醍醐天皇が政治を動かすことは、足利氏、さらに足利氏新派の既得権益と今回の討幕で得た権利を侵さない限りは、尊氏にとって何ら不快なことは無かった、という事もある。
北条氏の鎌倉幕府を討つことによって、時勢を読み違えれば北条氏と共に滅ぼされかねなかった足利氏の安泰を得た今となっては、そもそも尊氏自身に新政権内で権力を得、日本という国を治めようなどという発想はない。それは後醍醐天皇とその公家一派が放っておいてもやってくれる訳で、尊氏自身が鎌倉幕府の御家人たちを中心とする武家たちの何となく頭領という感じであれば、たとえ総ての武家を統括せずとも、それはそれで満足できた。
つまり、尊氏は新政権の外側から政治を眺めながら、好きな和歌づくりや田楽に興じていれば良いのだし、新政権からは無視できない軍事統括勢力として気を遣われ、同時に武家たちがそれなりに尊氏自身を持ち上げてくれれば更に良いという事だ。
一方、後醍醐天皇とその公家一派としても、家柄でも功績でも武家第一の実力者である尊氏は政権の外側で武家を統率してくれればそれで良く、逆に尊氏を政権内に招き入れ、いちいち政権運営に口を出されては、それが足利氏一派の軍事力を背景としているだけに、ややこしいし、ある意味リスクでもある。従って、尊氏が親政権内での役職に拘らなかったのは、彼らにとっても好都合だったという事だ。
尊氏にとって一つ心配事があったとすれば、それは西国武士たちの信望が厚い護良親王、大塔の宮が自分を過剰に嫌っていたという事だろう。
尊氏と護良親王の避けられない対立。護良親王の政権参加をあまり快く思っていないように見える後醍醐天皇と護良親王の微妙な親子関係。尊氏と後醍醐天皇の愛憎ともいえる、ある種割り切れない感情をまとわせた関係。この後起こる中先代の乱を契機に、この三つが複雑に絡み合い、長い騒乱の時代へと入っていくという事になる。
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