あっという間の鎌倉幕府滅亡 太平記其一九


鎌倉幕府はあっという間に滅んでしまう。1333429日に足利尊氏が各地の武将に対して討幕の呼びかけを行ってから一月足らず、新田義貞は上野で挙兵してからは2週間という短さだ。



429        尊氏、丹波篠村で各地の武将に討幕の呼びかけを行う。

篠村八幡宮に奉納する願文を起草。

52         尊氏の嫡子である千寿王が鎌倉脱出。

57         尊氏、丹波篠村を出立。軍勢25.

      同日、六波羅探題陥落。

58         新田義貞、上野生品明神で旗揚げ。

511        小手指原の戦い

512        千寿王、新田軍に合流

                久米川の戦い

515        分倍河原の戦い

518        新田軍、鎌倉攻撃

521        新田軍、稲村ケ崎突破

522        北条一族、東勝寺にて自害



何故、倉幕府が滅んだのかについては諸説あるが、決定的な理由は分かっていないらしい。

ただ言える事は、大まかに言ってしまえば、北条一族VSそれ以外の武士、という極端な図式が一月の間に出来上がってしまったという事だ。しかも、北条氏及びその側近は全御家人中3%程度を占めるにすぎないので、多勢に無勢どころの話ではない

何故こんなことが起こってしまったのだろう。

源氏嫡流足利氏の尊氏が討幕の呼びかけを行ったので、全国の反北条、反平氏の源氏の御家人を含む武士たちが突然北条氏に反旗を翻した・・・なんてことではない。
ただ、西国の武士たちにとっては、御家人の中では最も家格が高く、北条氏との結びつきも強い足利氏が、まさかその北条氏に反旗を翻すとは思ってもみなかったのだろう。その意味で、尊氏の呼びかけと行動は、楠木正成、赤松円心等の西国反幕府武士達の討幕運動よりはずっとインパクトがあった。鎌倉幕府との間の利益相反が顕在化しつつあった西国武士たちは、この機に乗じて自らの利益を確保するというか、むしろ更に拡大しようと考えても不思議はない。その頃の尊氏軍には多くの悪党が含まれていたという説もあり、六波羅探題を亡ぼした武力主体は、そうした悪党など、自分の経済的利益の維持や拡大に敏い西国反幕府勢力だった訳だ。

しかし、東国で鎌倉を攻め、北条氏を滅亡に追いやったのは、あくまでも御家人を中心とする武士達だった。



鎌倉時代を眺めてみると、それはあたかも北条氏による競合勢力潰しの歴史のように見える。

中には大きな戦を伴うものもあったが、全国規模で見てみたら、それは鎌倉というコップの中の戦争みたいなものだ。全国規模といえるのは唯一承久の乱くらいかと思う。

東国の御家人たちにとっては、そういう北条氏の幕府内での権力抗争、コップの中の戦争をずっと見て来たので、今回の北条討伐もそうした一連の抗争をちょっと大きくした様なもの、くらいの感覚だったんじゃないかと思う。だから、北条という首長が滅ぼされても、それに代わる、例えば足利のような首長がすぐ就任し、基本的な幕府の枠組み、社会の体制は変わらず、むしろ御家人たちにとっては北条氏の特権体制が消滅することで、自分たちの利益が保全されるくらいの感覚だった。その感覚で、足利尊氏の旗揚げ、六波羅探題の滅亡という風聞が広がる中で、周り近所の武士たちの動きに乗り遅れまいと、世の勢いそのまま、ある意味パニックに突き動かされるように北条打倒の兵を挙げたという事で、これが天皇親政の世の中に突然急ハンドルを切ることになるとは思ってもみなかったのかもしれない。

勿論、今回は、後醍醐天皇の綸旨というものがあって、それまでの鎌倉内部の権力抗争とは全く趣は異なり、どちらかと言うと朝廷vs武家という承久の乱の様なものだが、当時の東国武士の中で、それを社会変革と結び付け、自分の現在の政治的・社会的地位もこれまでとは違ったものになる可能性がある、と想像できる武士は何人もいなかったんじゃないかと思う。この辺りは、京に近い西国の武士達とはかなり意識に差があったかもしれない。



そこで、ちょっと話を戻して、足利尊氏が北条氏に対し謀反を起こそうと思ったのは何故かという点に立ち返ってみる。
前に「尊氏は、流通経済が進みつつある社会の変化と武士たちの間で溜まりつつある不満とを敏感に感じ取っていたが、その尊氏を反北条行動つまり謀反へとそそのかしたのは上杉憲房で、討幕のシナリオをかいたのかいたのが弟の直義。尊氏はこの二人がプロデュースした討幕劇にまんまと乗せられたのかもしれない。」と書いた。
さらに付け加えるとすれば、尊氏を動かしたのは、そうした特に御家人たちの何かあれば一気に暴発してしまう、その勢いへの恐怖感だったのかもしれない。足利氏は源氏の嫡流であるものの、代々北条氏と姻戚関係にあり、北条氏に最も近い一族の一つと目されていた訳だから、一度御家人たちに火がついてしまえば、北条氏と一緒に袋叩きにされ葬り去られてしまうという、そういう恐怖感だったんじゃないかと思う。

尊氏のそういう恐怖感を上杉憲房は巧みに利用し、北条氏に対する謀反へとそそのかし、弟直義はその謀反の具体的なシナリオを巧み作り上げていった、という事なのかもしれない。


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