人質と誓言 太平記其一六


さて、誰にそそのかされたにせよ、足利尊氏は再三の幕府からの出兵要請に従う形で、133337日に鎌倉を発つ事になる。

      

しかし、鎌倉出立の前日に、内管領長崎円喜の具申により、北条高時から妻の登子と嫡男千寿丸を鎌倉に留め置くこと、幕府に忠誠を尽くす旨を神に誓う誓言を差し入れることを申し付けられる。

当り前の様に思えるが、これは武家の習わしを江戸時代基準で考えてしまうからで、この時代、こういうことは当り前ではなかったのかもしれない。いずれにせよ、尊氏はこれにかなり苛立ったと太平記には書いてある。

そして尊氏がこれを弟直義に相談すると、既に尊氏の決心を知っていた直義は即座に「北条氏の無道を正すための偽りの誓言なら神は受けない。千寿丸は万が一の時には残った郎党がどこかへ逃がすだろうし、登子は赤橋家の人間なので、兄である執権赤橋守時が悪いようにはしないだろう。大事の前の小事、心配することは無い。」と尊氏に言い、尊氏もこれに納得するという事になっている。

これは史実では無いにしろ、この下りは尊氏と直義の性格の違い、お互いの関係がうかがわれて面白い。また、尊氏という人間のこの辺の思い切りの悪さというか、まずは悩んでしまうという人の好さというか、またそれが表に出てしまう正直さというか、この人間臭さは弱さであると同時に魅力でもある。



それはさておき、事実、尊氏は誓言を違え幕府を討伐することになるし、尊氏の謀反を幕府が知る頃には、千寿丸と登子は鎌倉から姿をくらます。

吉川太平記では、赤橋守時が北条高時に「登子は尊氏の謀反を知って自害をした。」と嘘までついて登子を逃がし、また母親の上杉清子については甥の上杉憲房が足利の地に逃した、という事になっている。



では、尊氏と登子の赤橋家の関係はどうなっていたんだろう。北条一族の赤橋家としては、こんな事されたらたまったもんじゃない、という事を尊氏はしでかしたわけだ。

尊氏は謀反を起こせば、赤橋家に何らかの咎めがあるという事くらいは当然分かっていた筈だ。しかし、そんな事は気にせず、どこまでも自分ファーストというのがこの時代の常識なんだろうか。もしそうなら、そもそも北条高時が人質として千寿丸と登子を鎌倉に残せと言う筈がない。

もしかしたら、尊氏と登子の関係は、今でいう夫婦の情愛が薄かったのかもしれない。直義も、登子は赤橋家の人間だからなんとかなる、なんてちょっと突き放した言い方してるし。それに、登子は冷たい性格だったという言い伝えもあり、そうだとすると、あまり尊氏と相性が良さそうには思えない。尊氏としては自分の世継ぎである千寿丸の命さえ担保できれば良い、というのが本音だったのだろうか。

さらに、赤橋守時が尊氏の謀反を知った後に登子を鎌倉から逃したんだとすれば、こんなドラマチックな解釈も。

単なる中継ぎの執権に過ぎなかった赤橋守時は、かねてから北条得宗家の横暴に怒りを覚え、また幕府の行く末にも絶望していたため、後醍醐天皇が新しい世を作ることにシンパシーを感じていた。だから、尊氏が謀反を起こした時に、我が身は幕府と共に滅びるとも、登子は尊氏の所に送り命を長らえさせようと考えたのかもしれない。それは、赤橋家の血筋を残すという事にもつながる。
そして新田義貞の鎌倉攻め。赤橋守時は武士として幕府への忠義を全うすべく、小袋坂(巨福呂坂)の西、洲崎で死地を求める様に昼夜65回も戦い、そこで自害して果てる。

まるで大河ドラマみたいな筋書きだ。

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