旗揚げのシナリオ 篠村八幡 太平記其一八
1333年4月、三河で三河足利党を結集した足利尊氏は足早に京に向かう。後醍醐天皇からの綸旨は、吉川太平記では近江の鏡宿辺りで、太平記では入京の翌日、使者を船上山の後醍醐天皇のもとに送り、受けたという事になっている。
その辺りの展開を、日を追って見てみると
4月16日 足利尊氏、軍勢3千6百を率いて入京。
4月20日頃 名越尾張守高家が7千の軍と共に入京。
幕府方の武者たちも続々と集まり幕府軍はゆうに3万を超える。
4月27日 名越高家、足利尊氏、赤松円心の軍勢と戦うべく京を出陣。
名越高家は久我畷(現在の伏見区)方面へ、尊氏は北野から丹波口方面へ移動、桂川の西に布陣。
名越高時、久我畷(現在の伏見区)で討ち死に。
同日、足利尊氏は桂川を渡河し,松尾寺の山際から大江を越えて丹波篠村へ向かう。篠村は足利氏の飛び領。
4月29日 尊氏、各地の武将に討幕の呼びかけを行う。
篠村八幡宮に奉納する願文を起草。
5月2日 尊氏の嫡子である千寿王が鎌倉脱出。
5月7日 足利尊氏、丹波篠村を出立。軍勢2万5千.
尊氏、北野神社の東南、右近の馬場に布陣。軍勢5万に膨れあがる。
同日、六波羅探題陥落。
5月8日 新田義貞、上野生品明神で旗揚げ。
5月9日 探題北条仲時自害。
5月10日 尊氏、六波羅探題があった場所に奉行所を作る。
5月11日 千寿丸王、新田軍に合流。
日を追って事態の変遷を見てみると歯車が時を刻む様に整然と事態が進行している。特に4月16日の尊氏入京以降は綿密に仕組まれたようなタイムスケジュールで事が進む。
4月27日の京出陣時には、名越高時が苦戦しているのを横目に、尊氏は酒盛りに興じ、名越高時が討たれたと見るや赤松円心方の攻撃を警戒する風も無く、兵を西に転じ丹波篠村に向かい・・・と太平記に書かれるくらい、後醍醐天皇方も含め、尊氏謀反シナリオが整然と進められているように見える。
鎌倉の千寿王が脱出したのも、タイミング、バッチリという感じ。それで、兼ねてから予定していた通り、脱出後は北に向かい、南下してくる新田軍に合流するのである。
さらに、六波羅探題陥落後3日、北条仲時自害の翌日の5月10日には、尊氏は六波羅探題があった地に奉行所を設立、京の治安維持に努めている。
出来過ぎている。
尊氏が鎌倉にいる間に尊氏謀反は既に仕組まれていて、その時から着実に後醍醐天皇方も含め必要な手が打たれていたということなのだと思う。だから、その後の打ち手に無駄や混乱が感じられない。
では、これを仕組んだのは誰か。尊氏を謀反へとそそのかしたのは、前に書いたように高師直、佐々木道誉もしくは上杉憲房じゃないかと思うが、シナリオを描いたのは弟の直義っぽい感じがする。直義は実務官僚としては大変優れていて、筋書きさえ与えてやれば、それを行動計画におとし、効率的に実行に移す能力は抜群だ。直義は、まさにその討幕シナリオを、そこに描かれた時系列通りに実行して行ったのだと思う。
そう考えると、尊氏謀反劇は、直義そして直義と親密な関係にあった上杉憲房の共同プロデュースで、尊氏は上手くそれに乗せられてしまったのかもしれないと思ってしまうのだ。
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