そそのかされる尊氏 太平記其一五
尊氏が何故北条氏に反旗を翻すことになったのかは定かでない。
太平記は、「父貞氏の喪も明けず、加えて尊氏自身が病を得ているのにもかかわらず、無理やり船上山の後醍醐天皇軍討伐に向かわされた、その恨みがつのって北条氏に反旗を翻した。」とさらっと書いているが、そんなことはないと思う。
同様に鑁阿寺の置文、例の尊氏の祖父である足利家時が書き残した「自分では出来なかった、北条氏に奪われた政治権力を再び源氏の本流である足利氏に取り戻す事を孫の代に託す。」という文書が引き金になったとも思えない。
尊氏は情報リテラシーに長けていたのではないかと、以前書いた。
大量の宋銭の流入を背景に都など一部地域とはいえ、確実に進展する貨幣経済。それに伴い更に活性化する商品の流通。流通を抑え、金融に乗り出し、それを梃に台頭してくる悪党をはじめとする新興勢力。その一方で、ますます困窮の度合いを深める武士階級に蓄積されていく不満。社会は明らかに新たなフェーズを迎えようとしていた。
そして、後醍醐天皇が隠岐に配流されてもなお、治まりを見せない畿内を中心とした西国の反幕府活動。護良親王、楠木正成らの軍事行動を抑え込む事すらできない北条政権の対応の鈍さ。陰りを見せ始めた北条氏の権力。
そんな事がもつれあって流れていく世の動きに、鎌倉に戻っていた尊氏が鈍感であった筈はないし、後醍醐天皇の隠岐脱出がそのもつれた流れを、さらに加速していく恐れがあることも尊氏は気付いていたかもしれない。
しかし、そうした世情を鑑み、鎌倉幕府を支え続けるべきか、後醍醐天皇の政権奪取に加担するべきか、悩みに悩んだ末「新たな武士の世を作るのは自分しかいない。」と思い立って反旗を翻すというのも、その性格を考えると、どこか尊氏らしくない。
そこで考えられるのは、誰かにそそのかされたんじゃないかという事だ。
では、その誰かとは、上杉憲房、佐々木道誉、高師直あたりか。弟の直義・・・これは無いか。
かねてから、幕府側に立ちながらも後醍醐天皇との関係を良好に保つ努力をし続けていた佐々木道誉なら、北条政権の行く末に見切りをつけ、源氏頭領格の尊氏を後醍醐天皇勢力に巻き込むことによって、自らの生き残りへの強力な一手を打っておこうと考えたかもしれない。また権力志向と自己顕示欲が強そうな高師直に下から突き上げられたという事も考えられる。この二人は、北条政権打倒後の明確な政権構想は無かったかもしれないが、いずれの場合も、自分の権勢を最大限にまで引き上げたいという野望だけは明白な感じがする。
上杉憲房の場合、尊氏の母清子の兄妹という事もあって、尊氏への影響力は上記の二人より強かったかもしれない。上杉家はそもそも京の貴族階級の出なので、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、新政権を樹立することに全く違和感は無かったし、むしろそれを望んでいたとしても不思議はない。
既に北条政権の存続に積極的な意義を見出していない尊氏は、上に書いた三人の誰かに巧みにそそのかされたら(そそのかしたのは一人じゃないかもしれないが)、それもありかと神輿に乗ってしまうという感じが、一番尊氏らしい感じがする。
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