できるサラリーマン佐々木道誉 太平記其一四


物語は後醍醐天皇の隠岐の島配流(13323月)へと進むが、ここから醍醐天皇の隠岐の島脱出、船上山での討幕の勅命(13332月)に至る1年ほどは、足利尊氏は物語からは消える。

この間、尊氏は、笠置参陣直前の父貞氏の死去に伴い正式に家督を継ぎ、また幕府から朝廷に従五位の上に推挙される。尊氏は131915歳の元服時に従五位の下になっているので、幕府としては家督を継いだのでちょっとだけ昇進させてやろうくらいの感じだったのかもしれない。因みに従五位以上が昇殿を許される貴族階級となる。



一方、この間に物語で活躍するのは、足利尊氏の生涯を通じてライバルであり協力者であり対抗勢力でもあった佐々木道誉である。

六波羅探題からの信頼も厚く、後醍醐天皇の隠岐の島配流に際してはその警護役を仰せつかる一方、後醍醐天皇への配慮も忘れず、しっかり後醍醐に取り入ったりしている。

この後も、後醍醐天皇の勅命を奉じ幕府に反旗を翻し、その後は後醍醐天皇を裏切り尊氏方につき、さらに尊氏と弟直義が争う観応の擾乱では直義方につくも、直義が敗れると尊氏方に帰参して許されるなど、変節を繰り返しながらしぶとく生き残っていく。道誉の時流を読む力、情報リテラシー力は、時に尊氏以上であり、間違いなく尊氏以上に人の懐に入る術を知っていたと言えるかもしれない。



ふと気が付いてみると、こういう人間は、良い意味でも悪い意味でもサラリーマン社会で出世する人間の典型だ。勿論、仕事ができることが前提だが、調整能力も抜群で、社内の派閥抗争で社長派、専務派を巧みに渡り歩き、同僚を尻目にどんどん出世していく。

佐々木道誉も同様に、幕府、朝廷、尊氏と派閥を巧みに渡り歩き、夫々の派閥の中でどんどん出世して行く。

ドラマや小説では、この種の人間は最後に上司からも部下からも見放されたりして惨めな末路をたどることが多いが、現実社会では、あまりそういう事にはならない。

佐々木道誉の場合も惨めな人生の末路を辿るという事は無かった。何より賢かったのは、決してナンバー1になろうとしなかったことだ。少なくとも、尊氏にとって代わって自ら幕府の首魁になろうとはしなかった。

一方の尊氏は、言ってみれば天真爛漫で無邪気で生まれながらの経営者一族のぼんぼんで・・・という事になろう。
時流だけではなく、自分自身の人間力も冷静に分析していた道誉にとって、尊氏という人間が間近にいたという事は、不幸でもあり幸福でもあったと言えるかもしれない。

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