笠置寺 雉も鳴かずば撃たれまい 太平記其一一
1331年9月、京を脱出したが、頼った興福寺に受け入れてもらえなかった後醍醐天皇は、仕方なく笠置山に立て籠もることになる。
笠置山は奈良と京都の県境にあり、山は峻険、北に木津川が流れる要害の地だ。山頂には奈良時代創建と伝わる笠置寺があり、麓からそこに至る道は急峻にして地元の人間でも車を運転することを躊躇うほどだ。
笠置寺にはこんな伝承が残っている。
笠置山に鹿狩に来た天智天皇の皇子はある日、崖の先端まで鹿を追いつめた所、皇子が乗っていた馬が勢い余って崖下に転落しかけた。皇子が、「山の神よ、もし私の命を助けてくれるなら、この岸壁に弥勒仏像を刻んで奉ります」と念じたところ、危うく危機を逃れた。そこで皇子は、場所の目印として崖上に自分の被っていた笠を置いて帰るのだが、これが「笠置」という名前の発祥とさる。その後、皇子は再び笠置山を訪れて弥勒菩薩を刻もうとするが、あまりの絶壁のために悩んでいると、天人が現れて見事な弥勒像を刻んだと伝えられる。「笠置寺縁起」では、その後、白鳳十一年(683年)天武天皇が笠置寺を創建したとしている。
後醍醐天皇が行宮(かりみや)を笠置山に置こうと思ったのも、地形的有利に合わせて、こんな伝承に自分の行く末を重ねたためかもしれない。
笠置山はほどなく幕府方に包囲され、一月後には陥落。後醍醐天皇は伝承の皇子さながら、危機一髪、笠置山からの脱出に成功するが、数日後には山中で捕縛される。ここでようやく太平記に囲んだ幕府方の武将の一人として、足利尊氏の名前が出てくる。足利尊氏のデビューである。
正中の変では、鳴き声を隠して自らの関与を幕府に認めさせなかった後醍醐天皇も、今回ばかりは討幕と鳴いて、幕府方に討たれてしまったという事か。
雉も鳴かずば撃たれまい。
ところで、笠置にはもう一つ美味しい魅力がある。ジビエ。
秋のシーズンになると山頂付近にある料理旅館で供される、猪、鹿、そして雉の肉。深まりゆく秋に紅葉を愛でながら、ゆっくり雉肉を焼きながら盃を傾けるのは、この地ならではの楽しみだ。
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