足利尊氏は丹波に生まれた 太平記 其二
足利尊氏・一色馬之助主従は、都の居酒屋で幕府に献上する闘犬を連れた一団といざこざを起こした後、京の上杉兵庫守憲房の屋敷に逗留する。上杉憲房は尊氏の母、上杉清子の兄弟であり、尊氏には伯父にあたる。
上杉清子は尊氏の父足利貞氏の側室である。
尊氏の生誕地・生育地には鎌倉、足利と諸説あるらしいが、上杉氏の領地である丹波という説もある。
父貞氏は基本的に鎌倉に住んでいたのだから、母清子は側室であろうと、本来鎌倉に住むのが自然であると考えるとこの丹波説はやや無理があるかもしれないが、後の尊氏の少し斜に構えた処世感や和歌への傾斜を考えると、この丹波説が一番しっくりくるような気がする。
貞氏と清子の関係もしっくりいっていなかったのかもしれない。現代なら新幹線と山陰本線を乗り継いで半日ほどで会いに行ける距離でも、当時はそういう訳に行かないから、鎌倉と丹波の距離感は、そのまんま気持ちの距離感という事で、丹波に留め置かれたのは、坂東の無骨侍が、はんなり京美人に惚れて側室にしたのは良いけれど、早々性格不一致、即別居ということだったんではなかろうか。勿論これは妄想だけど。
だが、尊氏は父貞氏との折り合いが悪く、嫡男が早死にした後も、貞氏からなかなか跡継ぎとして認められなかったという事を考えると、貞氏と清子の関係も決して良好なものではなかったと妄想させられても仕方がない。
その丹波説を裏付けるように14世紀半ば尊氏により創建された綾部の安国寺には「足利尊氏公誕生之地」という石碑が立ち、清子の墓もそこにある。
丹波は京文化の影響が強い地で、尊氏も武家として育てられながらも、母清子の影響で和歌なども好んだようで、吉川英治の太平記中にも母清子からの言いつけで歌人冷泉為定を訪ねるくだりもある。つまり、尊氏は当時の武家としては、武門一辺倒の武人ではなく、文学青年的なナイーヴさも持っていたという事だ。
後に幕府を京に開くことになったのも、京文化に慣れ親しんだ生い立ちのために、朝廷・貴族の文化に染まった地に対する抵抗感が、坂東で生まれ育った武士ほどには無かったからかもしれない。幕府を京に置いたことで、尊氏はとっても苦労することになるんだけど。
もし、尊氏が足利や鎌倉で生まれ育ち、その文化が意識に染み付いていたなら、幕府は、鎌倉ではなかったにせよ、京から離れた東国の地のどこかになっていたかもしれない。そうなれば、足利幕府は鎌倉幕府と朝廷の関係をそのまま引きずった権力構造になっていて、南北朝は無かったかもしれない。
歴史はそんな風に、何かの偶然によって暫し形を変えることがあるかもしれないが、それでも、世の中の大きな流れには抗いようも無く、やがて日本各地の独立勢力による武力抗争の世の中、戦国の世はやはり到来したとは思う。
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