太平記 始まりは酒場


吉川英治の太平記は、足利高氏、一色右馬介助主従が都の酒場で飲んでいるところから始まる。この鎌倉時代末期の都は、酒屋の数が増えたのに加え、大和菩提寺の奈良酒をはじめ日本各地の酒も入ってくるので、都に居酒屋が軒を連ね・・・と言った具合だ。

               

ところで、居酒屋と言う形態が成立するのは江戸時代に入ってかららしいが、8世紀平安時代には既に居酒屋風の店が存在していたのと記録もあるそうだ。

鎌倉時代には酒は米同様、経済価値のある商品として流通するようになり、室町時代には地方からの酒が都にも入ってくるようになったから、いきおい酒を供する店の数も増えて行った筈だ。

その当時、都の居酒屋で飲んじゃ酔って暴れる奴や酒で身を亡ぼす奴も多かったらしくて、室町幕府成立後に制定された建武式目には「群飲佚遊を制せらる可き事」(酒飲んで騒ぎ過ぎてはいけないよ)なんていう条項も設けられている。



つまり、この酒の飲まれ方から推察でき社会状況は

l  酒を比較的多くの人が飲めるような下地としての経済的発展があったということで、同時に大量の宋銭が中国から流入していたから、貨幣経済の浸透も関西では都のみならず広く進んでいるということ

l  地方の醸造元から都への酒の供給を容易するようなロジスティク、交通網が整備されていること

l  酒を飲める、もしくは飲まざるを得ない世情が背景にあったこと

みたいな事だったんだろうと思うが、酒に関わらず、世の中が流動していく条件が既に整い始めているという事なんだろう。





ここでちょっと脱線するが、奈良酒の大和菩提寺は奈良県の御所(ごせ)市にあって奈良時代聖武天皇の頃の名僧、行基縁の寺だ。奈良に住み始めた当初、御所と言う地名を見て、平城京や飛鳥以外にも都があったのかと意外に思ったものだが、調べてみたら川瀬(ごせ)が転じて御所になったという事だった。紛らわしい。もっと気の利いた当て字は無かったのかと思う。

御所は大阪と奈良を分ける葛城山系の東側にあって、古墳時代には古代豪族の葛城氏、その後は蘇我氏の拠点であり、日本武尊が死後白鳥になって降り立った所という言い伝えもあったりして、歴史の古い土地柄ではある。しかし今は行ってみると、水田が目の前に広がっている以外は何も無い土地だ。もちろん古墳や古刹はあるが、そんなものは奈良のどこに行ってもある。

ただ、今でもこの辺りは奈良の酒どころの一つである。奈良の酒で人気の高い、千代酒造の篠峯や、油長酒造の風の森はこの辺りの酒で、広がる水田と葛城山系からの豊かな清水を考えれば頷ける。


更に脱線するが、この辺りが水が豊かだったこと、つまり逆に水害にも度々見舞われたことは、櫛羅(くじら)だとか蛇穴(さらぎ)だとかいう水害に関係した地名が残っていることからも推察できる。因みに櫛羅は土地がえぐり取られた崩壊地形を表す地名だし、蛇穴の蛇は鉄砲水がでた事を物語っている。

人間は水の無い所では生活しづらいので、自然と水の豊かなところに集まるのだが、一方、水によってもたらされる災害とも隣りあわせという事だから、今に残る地名や史跡は、水と適度な距離感で巧く付き合おうとしてきた土地の歴史を伝えている・・・という事を、東日本の震災の時に嫌と言うほど思い知らされたのだが、最近、またその記憶が薄れて行っているように思えるのは、ちょっと残念かもしれない。



それはそれとして、物語は続いて、幕府に献上する闘犬を連れた一団と高氏の遣り取りがあり、居酒屋が軒を連ね、昼間から酒に酔う巷の風情と併せて、泰平と退廃がもつれるように社会を覆っている様子が、やがてやって来る混乱の世の予感の様に描かれている。

この時、高氏(後の尊氏)は元服間もない156歳の設定で、鎌倉幕府滅亡まで10年ほどの頃だ。




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