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逃げて冴える尊氏 ブランド作り餌を撒く 太平記其三四

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  1336 年 2 月 13 日、新田義貞方の軍勢に囲まれた足利尊氏は、大友貞宗の進言により、兵庫の港から九州に向けて落ちる。 九州落ちにあたり、尊氏はしたたかにも二つの手を打っている。 一つは光厳上皇の院宣。その院宣は、 2 月 26 日に寄港した室ノ津で薬師丸と日野俊賢によってもたらされた。新田義貞とその与党を誅伐せよと院宣によって、新田義貞方との戦いの大義名分を手に入れ、源氏の嫡流である足利家と両輪で、足利ブランドを作ったというわけだ。 二つ目は「元弘没収地返付令」だ。尊氏は、兵庫を落ちる前に、全国に向け元弘没収地返付令を出す。この令は、北条与党に対する所領没収令によって没収された所領を返付するもので、後醍醐天皇の土地政策を否定し、鎌倉幕府の秩序に戻そうとするもの。これは、公家主導の後醍醐政権を否定し、武家主導の足利政権を成立させるという明確なメッセージに他ならない。つまり、後醍醐政権成立によって割を食い、特に領地問題で不満を募らせている武家たちに対する餌のようなものだ。 そして、この時期、尊氏は軍略家として冴えている。九州に落ちている最中の室ノ津で軍議を開き、播州に赤松氏を残し、備中に今川、安芸に小早川、長門に厚東氏、周防に大友、四国に細川等々、中国各地に配下の武将を配し、後醍醐天皇方の軍勢への防戦と来たるべき京への侵攻の足掛かりを作っている。   逃げているのにこの余裕。一つは光厳上皇の院宣を得てホッと一息ついたという事もあろうが、北条氏討伐の頃から大友氏とは連携をとっており、大友氏を通じてある程度九州の情勢を見極めていたという事もあるのかもしれない。 例えば、筑紫で尊氏を迎え入れる宗像氏は、建武新政時の後醍醐天皇の恩賞政策の中で、逆に領地を失い、後醍醐天皇に対し不満を募らせていたので、「元弘没収地返付令」を出した尊氏に対しても好意を持っていた。おそらく、こうした事例は他にもいくつもあり、潜在的な親尊氏勢力は九州に必ず存在する、と尊氏は読んだと思う。 時は少し遡るが、後醍醐天皇の綸旨を受けた菊池武時が 1333 年 3 月 13 日に鎌倉幕府鎮西探題に対し反旗を翻した際、武時から使者を送られても慎重な姿勢を崩さなかった大友、少弐等の九州の雄族は、 4 月 29 日の尊氏の大友、阿蘇、島津への書状を受け、漸く鎮西探題攻撃に踏

夢の続きを見せてくれる相手 太平記其三三

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  「そして神戸」という歌がある。千家和也作詞、浜圭介作曲で前川清が歌ってた。 「神戸 泣いてどうなるのか 捨てられた我が身が惨めになるだけ  神戸 船の灯うつす 濁り水の中に 靴を投げ落とす  そして ひとつが 終わり そしてひとつが 生まれ  夢の続き 見せてくれる 相手 捜すのよ」という歌詞だ。 これって神戸を兵庫に変えたたら、兵庫から船で逃れた時の足利尊氏の心情そのものだ。 もっとも、この時には「夢の続きを見せてくれる相手」は先帝光厳と分かっていた。 1336 年 1 月初めに京に攻め込むまでは、後醍醐天皇をこちら側に取り込もうと考えていた尊氏だが、後醍醐天皇に比叡山に逃げられ、挙句に後醍醐天皇方との戦にも敗れ、京から丹波篠村に落ちる羽目となっては、後醍醐天皇の取り込みは断念せざるを得ない。一方、味方の武将に対して、その戦意高揚のためにも、自らの正当性を担保する何かを得る必要性が出てきた。 そして、それは「先帝光厳上皇の院宣」だという結論に達した時期は、 1 月 30 日に丹波篠村に落ち、そこから摂津に向かう途中、三草山を越えている最中の 2 月 2 日の事だと太平記ではなっている。この日、尊氏は同道していた薬師丸に、日野賢俊に仲介を頼み光厳上皇の院宣を入手してくるよう命ずるのだ。薬師丸とは、尊氏の小姓で、熊野山の別当法橋道有の末子だが、別当家は日野家と縁があったと伝えられる。また、日野賢俊は、鎌倉幕府の討伐に奔走し佐渡で処刑された日野資朝とは兄弟である。 大覚寺統の後醍醐天皇の為に働いたその日野が、なんで持明院統の光厳上皇との仲介が出来るのかと不思議に思うが、実は日野資朝、賢俊の父である日野俊光は持明院統の重臣であって、だからこそ賢俊は持明院統の光厳上皇に近づけたという事だ。逆に醍醐に接近した資朝は日野家にとってむしろ反逆児で、その為に俊光から勘当されたという経緯にある。お公家さんも色々だ。   で、薬師丸は日野賢俊を介して首尾よく光厳上皇の「新田義貞とその与党を誅伐せよ」との院宣を手に入れるのだが、いつ尊氏のもとにそれを届けたのか。太平記では、尊氏が九州から京に再び攻め上る途中で厳島神社に参篭した 5 月 3 日という事になっているが、吉川太平記では、尊氏が九州に向かう途中で立ち寄った室の津で 2 月 26 日に受

兵庫の奇跡 太平記其三二

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  1336 年 1 月の京での戦いで敗れ、丹波篠村に撤退した足利尊氏は、敗残兵をまとめると三草山を越えて兵庫に落ちる。ここで体制を整え、弟直義に 16 万騎(太平記によれば)を与えて京奪還を目指すが、 2 月7日に豊島河原(大阪箕面の辺り)の戦いに敗れ、逆に兵庫で後醍醐天皇方に追い込まれる形となり、尊氏は絶望の淵に立たされることになる。 兵庫の福海寺には、「兵庫に逃げてきた尊氏は、新田義貞の兵に追われ、福海寺の前身である針が崎観音堂の壇下に身を隠して難を逃れた。」という伝承が残っているが、それほど尊氏は追い込まれていたという事だ。 しかし、ここで不可解にも後醍醐方の攻撃の手が鈍る。 湊川方面から攻め寄せた楠正成は、尊氏と睨み合いの末、一戦交えることなく戦線を離脱する。それに代わるように芦屋方面から北畠顕家が、六甲方面から新田義貞が軍を進め、圧倒的な兵力で足利軍を攻めたてるが、足利尊氏が耐え切れず大内氏・厚東氏が派遣した長門・周防の兵船に乗り海上へと逃れ、足利の兵達も西を目指して落ちていくのを目前にしながら、新田義貞も北畠顕家も、これを追撃して殲滅するという事をせず、兵馬を休めてしまうのだ。2月13日の事である。 まるで、第二次世界大戦時でダンケルクに追い込んだ連合軍を前に、突然進撃を止めてしまったドイツ軍の様だ。いわゆるダンケルクの奇跡だ。結果、連合軍はダンケルクから英国に逃れ、逃れた連合軍は後にノルマンディーに上陸し、逆にドイツ軍をドイツ本国へと追い込んでいくことになる。 兵庫から九州に逃れた尊氏も、後に再びこの地に上陸し、新田義貞、楠正成を打ち破り、再び京へ軍を進めることになる。   圧倒的な勝利が確信されている場合、軍の統率者は、勝利よりむしろ兵の損耗を優先して考えてしまうのだろうか。 ダンケルクの場合は、空軍相ゲーリンクが空爆による連合軍の殲滅を主張し、それを実行しようとしたが、悪天候に阻まれて結果を出せなかったのが理由の一つと言われている。ヒトラーがゲーリンクの主張を受け入れたのは、長期戦に備えて、陸軍の突入による兵の損耗を抑えておきたかった、という事なのかもしれない。 新田義貞・北畠顕家の場合、既に勝利を確信し、尊氏の再起は無理だと判断し、深追いを避けたという事なのだろうか。特に北畠顕家の場合、奥州からの強行軍の上、休む