ここでちょっと新田義貞 太平記其三〇
太平記では、新田義貞は足利尊氏のライバルとして描かれている。特に、中先代の乱をきっかけに起こる「足利尊氏 VS 後醍醐天皇」という図式の中で、新田義貞は後醍醐天皇の軍事力の象徴として、朝廷軍を率いて尊氏と対峙するのである。 足利氏も新田氏も、源義家の四男の義国の系譜をひく、源氏本流の家柄だ。 しかし、鎌倉時代を通じて、御家人の筆頭として北条氏から遇された足利氏に対して、新田氏は他の御家人の中に埋もれてしまっている。そもそも、源頼朝と親戚関係にあった足利義兼以降、足利氏の当主は代々北条氏一族と姻戚関係を結び、その地位と一族の保全を図った。一方新田氏は、そうした姻戚関係戦略が不調で、むしろ足利氏に接近することで、その郎党として一族の保全を図った。 従って、新田氏は足利氏にとっては一郎党に過ぎず、ざっくり言ってしまえば主従関係にあったわけだ。 元弘の乱で新田義貞が討幕の兵を挙げたのは、太平記によれば、幕府の楠正成など西国の反乱分子を討伐るための軍事資金の徴収に来た幕吏を、その徴求額があまりに高額だったのと(6万貫と言われ、現在の金額で3~4億円程度か?)、その態度があまりに無礼だったので、義貞が斬ってしまい、これはヤバいぞ、このままでは幕府の軍勢にやられてしまうから、その前にやってしまおうと決意したのが理由だという事になっている。 だが、最近の研究で言われているように、足利氏と新田氏は主従関係にあったのだから、既に六波羅攻めを決意していた尊氏が討幕の命令書を義貞に送り付け、義貞がそれに従ったというのが事実に近いような気がする。新田軍は挙兵後、鎌倉から逃れてきた尊氏の嫡男義詮と合流することで、関東の武家たちを糾合し得る朝廷軍として武蔵に侵攻、半月ほどで鎌倉を攻め落とすことになる。この鎌倉攻略で、義貞は、足利の郎党の中でも無視できぬ特別な存在になりえた、それどころか、北条氏の本拠を落とした自分は後醍醐天皇から見れば尊氏とほぼ同格になったと、都合の良い「勘違い」をしたのかもしれない。 で、鎌倉で戦後処理を行っていた義貞であるが、鎌倉攻めの実質な指揮者であり、武功一番の自分より、どうも武家の連中の気持ちが足利義詮に傾いていることを日に日に感じる事になり、鎌倉の戦後処理・統治の実権も尊氏が送った細川三兄弟の手に次第に移って行くことが明らかにな