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観応の擾乱の副産物 関東の騒乱

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  開闢当初の室町幕府は、尊氏の領地の分配・所領安堵に基づく御恩と奉仕の関係による支配と並行して直義の制度・組織による統治により武士を束ねていたので、この時代は尊氏・直義の二頭政治の時代と言われている。朝廷・寺社もこの流れの中で武家社会との関係を持つことになる。 それが観応擾乱で直義死ぬと必然的に全ての支配統治権力が尊氏の許に集まる。実際には観応の擾乱三段階 1.直義による高師直の官職追放、その後の高師直の御所巻きと直義の逼塞(1349年6月~) 2.直義の巻き返しと高一族の滅亡(1351年1月~) 3.尊氏、義詮の直義追討と直義の死、それ以降の関東での戦い(1351年10月~) の1.で直義が逼塞すると尊氏は鎌倉から嫡子義詮を京に呼び戻し、3.で直義を追討した尊氏が関東にいる直義派残党・南朝派勢力の討伐のために鎌倉に残ると、暫くは一元化された支配統治権を持つ尊氏と義詮が鎌倉と京に併存するのだが、尊氏が京に戻るに及んで義詮に集中することになる。この支配統治権の将軍への一元化が観応の擾乱の産物と言える。   ところが、観応の擾乱はもう一つ副産物を生んだ。 直義逼塞時に尊氏は鎌倉の義詮を京に呼び戻し、代わりに次男の基氏を鎌倉に送った。その後、直義を追討した尊氏が鎌倉で京の義詮に諮ることなく独自に関東の武士たちに恩賞を与え始めるのだが、それを基氏は近くから見ていたわけで、その過程で鎌倉の京に対する独立性というものを意識していったのではないかと思う。 そもそも、建武新政の当初、関東の武士たちを統治するために後醍醐天皇の皇子成良親王を鎌倉将軍として送り直義が執権を務めたのだが、鎌倉将軍府はあくまで京の政権の下部組織であった。尊氏も京と鎌倉の関係は十分承知はしていた筈だが、そこは親子の関係、承知の上で鎌倉独自の支配統治を行っていたようだ。 基氏はその後も鎌倉公方として鎌倉で関東の支配を行ってゆき、その子孫が代々鎌倉公方を引き継ぐのだが、足利義満以降の室町幕府の不安定性のなかで鎌倉の独自性、京との対等性という意識が徐々に確固としたものになっていったと考えられる。 この事が、その後の関東における騒乱、1416年上杉禅秀の乱、1438年永享の乱、1454享徳の乱の下地になって行くこと思えば、観応の擾乱は足利兄弟の壮大な兄弟喧嘩とか足利氏の内訌と

観応の擾乱 漂流する願望と現実

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  観応の擾乱という壮大な兄弟喧嘩とは 何だったのだろうか。 そもそも、兄弟で争う意思があったのだろうか。足利尊氏、足利直兄弟義双方にその強固な意思は見えない。 観応の擾乱を 1.直義による高師直の官職追放、その後の高師直の御所巻きと直義の逼塞(1349年6月~) 2.直義の巻き返しと高一族の滅亡(1351年1月~) 3.尊氏、義詮の直義追討と直義の死、それ以降の関東での戦い(1351年10月~) の三段階に分けるとして、 高一族が滅ぼされた時期以降に、感情的に兄弟互いに感情的に憎むことはあったかもしれないが、それでもそれは兄弟喧嘩の域を出ず、幕府の在り方をめぐるイデオロギー闘争でも、権力闘争でもなかった。 兄弟の感情的な対立としては、尊氏の庶子直冬の処遇を巡る対立が考えら、これに関連した尊氏の嫡子義詮の尊氏後継に関する其々の思惑でのすれ違いも考えられるが、それが原因で兄弟殺し合いに発展するとは、そもそも仲の良い足利兄弟の場合、考えにくい。   基本的に幕府運営上の思想の対立は高師直と足利直義の間にあり、尊氏積極的にこれに関わらず執事である高師直の上に乗っかっていたに過ぎない。問題は、この高師直・足利直義の幕府運営方針の対立に乗じて、己が勢力の伸長を図ろうとした武家達だ。   直義の政治思想は、鎌倉幕府的秩序を尊重し維持することであるので、寺社・公家の大半はこの直義の思想を支持していたと思われる。それに対して高師直の思想は朝廷や寺社といった伝統的権威を軽視し、武家の権益を拡大することを目指すことにあった。そうであれば、武士たちにとっては高の思想こそ己が勢力を伸長させるのに好都合なのであるから、こぞって高の側に付くと思いきや、実際はそうはならない。例えば有力御家人の様に鎌倉幕府体制を維持した方が好都合というケースもあり、武士たちにとっても、全て力で片を付けようかと言わんばかりの高の思想では対応しきれないという現実もあり、逆に現状の領地の保全という意味では直義の思想にも一定の理はあったのである。 武士たちはその時その時の己が置かれた状況に応じて直義と高の思想を天秤にかけたろうし、またどちらの勢力が優勢かに応じて立ち位置を変えただろうし、自分の敵対勢力が尊氏・高か直義かどちらについているかによりつく側を変えただろうし、という