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何故に尊氏九州へ

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  1336 年 2 月、後醍醐天皇方の反抗で京を撤退し、その後兵庫まで退いた足利尊氏は、ここから海路九州へ向かう。この九州落ちについては、赤松円心の献策という伝承もあるが、最終的には尊氏本人が決めたのだと思う。こういう時に、何時も何かしらの策を考えるが弟直義なのだが、この時に限っては、九州落ちは直義にとっては意外だったというような記録が残っているらしい。しかし、兵庫からいきなり九州というのは物凄い発想で、こういうぶっ飛んだ発想を受け入れて決断するのは尊氏らしいと思うが、そういう発想が生まれるには、それなりの理由がある筈だ。 本来、尊氏が巻き返しを図るなら、足利の本拠である関東を選びそうなものだが、一度兵庫まで退いた状況で、後醍醐天皇方の武士たちがうじゃうじゃいる畿内を通過して関東に至るのは、現実問題として無謀ともいえる事なので、まずこの線は消える。 じゃあ中国のどこかでは無理なのかという事である。例えば赤松氏の勢力が強い播磨とかは考えられるが、基本的に中国に有力な尊氏の支持勢力は見当たらず、大友・少弐・厚東などのある程度強力な支持勢力のいる本州西端から北九州にかけての地は、尊氏にとっても腑に落ちる選択だったのだと思う。 九州の武家についていえば、 1333 年 4 月の討幕の旗揚げに際して、尊氏は、九州に軍事的影響力を及ぼすために、大友貞宗、阿蘇惟時、島津貞久に書簡を送っていて、その辺りから関係を深めようとしていたかに見える。 尊氏九州落ちに際しては、上記の三人のうち、明確に尊氏支持勢力となったのは大友貞宗の子、氏泰だけだ。しかし、この時の九州では、頑固なまでに朝廷に忠義を尽くす菊池氏と盟友阿蘇惟時くらいが明確な反尊氏勢力で、それ以外は島津貞久の様に様子見を決め込んでいる武家が大半である。これは、建武新政時に、菊池氏に対する恩賞が他の向けに比べて圧倒的に優遇されていたことに対する不満が、その根底にあったように思える。つまり、尊氏が、自分たちに有利な恩賞政策をとってくれるのなら、容易く尊氏方に乗り換えることを意味している。そして、その素地は、尊氏九州落ちの途中、室津で、光厳上皇の新田義貞一派の追討令という院宣を受け取ったことと、諸武家に対して発送した、北条与党の所領没収によって取り上げられた所領を返還するという「元弘没収地返付令」で作られているわけだ

赤松円心 愚直にして不運

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  赤松円心(則村)という武将がいる。播磨の悪党と言われる。 楠正成が一貫して後醍醐天皇に忠誠を尽くしたのに対し、赤松円心は愚直というべきか、一貫して足利尊氏を支えた。円心は、2千の兵で、6万の新田義貞軍からおよそ2か月にわたり播磨の白幡城を守り抜いたほどで、軍略家として正成に勝るとも劣らぬ武将だが、尊氏方、北朝方という事で、長い間評価されず、名もそれほど知られなかった不運な武将だ。 1333 年の元弘の乱に際して、赤松円心は護良親王の綸旨を受けると、六波羅探題に反旗を翻し、これを攻める。最終的に六波羅探題に返り討ちにあうが、一時は六波羅探題とは目と鼻の先の三十三間堂辺りまで攻め込むほどの戦ぶりだった。後醍醐天皇が隠岐に配流になった後も、六波羅探題との戦いを継続し、足利尊氏が丹波篠村で旗揚げをするとこれに呼応するように千種忠顕らと京に侵攻、六波羅探題を攻め滅ぼす。 その後、後醍醐天皇新政権下では不遇を囲い、切望していた播磨国の守護の地位も与えられず、領地の佐用に帰る。不遇の原因は、当時の朝廷内の阿野廉子派と護良親王派の権力争いで、円心は敗れた護良親王派に属していたからとも言われるが、楠正成も護良親王と懇意の間柄だった事を考えると、これにはちょっと首をかしげる。むしろ、六波羅探題を攻め滅ぼした軍功一番の武将でありながら、正成に比べ後醍醐天皇からの処遇がかなり劣っていたのは、もしかすると、円心という人間が持つ、土着の地方武士特有の土臭く愚直な性格が後醍醐天皇と合わなかったのかもしれない、と思ったりもする。 円心には正成が持っていたであろう都風の作法や、尊氏のような和歌への憧憬といったものは無かった。ただひたすら、土地に執着し、領地の拡大を期待し、家の存続を願う地方武士の典型であったと思う。円心は悪党なのだが、楠正成や名和長年に見られるような商業・流通への傾斜は見られず、既に鎌倉末期から徐々に広がり始めた初期的なコマーシャリズムに目覚めていた後醍醐天皇にとっては、前時代の田舎武士にしか見えなかったのかもしれない。 この新政権における不遇が、円心が、後年足利尊氏が後醍醐天皇に対して反旗を翻した後の極めて劣勢な時期も、裏切ることなく尊氏を支え続けた要因の一つだ。 1335 年 1 月、京から兵庫に落ち延びた足利尊氏に、九州への撤退とそこからの巻き返しを献策