新田義貞の承認欲求―足利氏と後醍醐天皇の対立構図の間で
中先代の乱を発端として始まった足利尊氏と後醍醐天皇の対立は、尊氏の朝廷への伺いを立てることない恩賞発給によって始まる。これは、中先代の乱終息 1 ヵ月後の 1335 年 9 月には始まったようだ。 足利尊氏が北条時行討伐出立時に後醍醐天皇に対して行った要請のうち、征夷大将軍の任命は認められなかったものの関東八ヵ国の管領職は認められていたので、武功のあった武士に対して恩賞を与えるのは後醍醐天皇も黙認している、と少なくとも尊氏当人は無邪気に考えていた。しかし、会社だって人事と報酬の決定を、権限を与えていない筈の部下が勝手にやったら上司は頭にくるわけで、後醍醐天皇が、尊氏は自分に相談もなく何やってんだ、とムカつくのは当然だ。だから 10 月に中院具光を鎌倉に送り、勝手な恩賞沙汰はやめて取り敢えず都に帰ってこい、と尊氏に迫るわけである。 尊氏としては、上司である後醍醐天皇を何故か怒らせてしまったようなので、ここは都に帰ってゴメンと謝れば済む話と高をくくっていたようだが、政治というものは古今東西こういう無邪気な不始末を放ってはおかないものだ。 尊氏側近最大の政治人間である弟足利直義は、この事態に直面してこう考える。 「そもそも北条氏を滅ぼしたのは、最終的に足利氏が北条氏の鎌倉幕府の後を継ぎ武家の頂点に立つことが目的だったのだから、関東における地盤強化のために、 恩賞を与える実質的な権限を持っているのは足利だと武士たちに認めさせる事が必要。尊氏にのこのこ都に戻られて、後醍醐天皇に謝られてしまい、果ては一度出した恩賞沙汰の取り消しという事にでもなったら示しがつかないので、折角鎌倉に入った尊氏を都に帰してはならない。 しかし、このままでは足利氏と後醍醐天皇が真正面で対立・抗争することになりかねず、これは現実的にはかなり厳しい構図だと言える。だが、この構図を足利氏と新田氏の対立・抗争の構図に変えられれば、それが経過措置的なものであったとしても、事態はずっと対処しやすくなることは間違いない。それに、ここで新田氏を叩いておければ、足利氏の関東における地盤は盤石になるわけで一挙両得である。」 そう考えたからこそ、直義は尊氏を説得しつつ 11 月に入ると全国に新田討伐の檄文を送り始めるのだ。 一方、後醍醐天皇と、特にその側近達は、これは、あの捉えど