投稿

9月, 2022の投稿を表示しています

酒と女と陰謀と

イメージ
  後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕運動の第一弾は 1324 年の正中の変という形で現れる 。 これは、日野資朝、日野俊基といった親後醍醐天皇派の公家や、多治見国長、土岐頼兼など反北条氏の武家、僧侶たちの倒幕計画が六波羅探題方に露見し、六波羅探題による首謀者の殺害、捕縛という結果に終わった事件だ。当の後醍醐天皇自身は幕府の追及に対して知らぬ存ぜぬで押し通し、からくも処罰を逃れるている。 計画自体は、北野天満宮の祭りのどさくさに紛れて六波羅探題を襲い、南都の衆徒なんかを動員して京の守りを固め、その間に西国の武家たちを糾合して鎌倉の幕府勢と対峙する、という雑なもので、どこまで実効性をもっていたのかはかなり疑問だ。 この討幕の謀議に用いられたのが無礼講という酒宴だ。この当時は既に、自らの利益のために要人をもてなす酒宴を開くことは珍しい事ではなかったので、後醍醐天皇腹心である日野資朝が、多治見国長や土岐頼兼といった武家や僧侶から、公家と武家という身分の壁を取り払い本音を聞き出すためには、衣冠束帯など形式上の礼を無視した形の無礼講という酒宴は特に奇異なものとは思えない。酒と女と陰謀と、という訳だ。 しかし、 「男は烏帽子を脱いで髻を放ち、法師は衣を着せずして百衣なり。年十七、八なる女のみめ貌好く、膚殊に清やかなるを二十余人にすずしの単ばかりを着せて、酌を取らせたれば・・・」(太平記) という具合では、計画が漏れてしまうのも当然と言えば当然だ。度々こんな事をやっていてはさすがに六波羅探題方に怪しまれると、僧を招いて文学の講義の体を取り繕ったりしたようだが、そんな事では六波羅探題の目はごまかせない。 太平記では、この一味の土岐頼員が無礼講の事を不用意に妻に漏らしてしまい、妻が父である斎藤利行に告げ口し、利行が六波羅探題に駆け込むという事で謀反は露見するという事になっているが、密告者が誰であったにせよ、実態もこれに近かったような気がする。 勉強会と称して料亭に集い、酒に酔った勢いで天下国家を語り、謀議を凝らし、二次会のクラブ辺りでホステス相手に大言壮語して、それが噂で流れ、最終的に党本部にばれて叱責されるような政治家は、今でもいそうだ。   だが、この正中の変はいくつかの観点から観ると、ちょっと興味深い。 1. 後醍醐天皇のリアリティ感覚

鎌倉の尊氏

イメージ
  そもそも尊氏は足利家の当主となる筈ではなかった。父貞氏には北条 ( 金沢 ) 顕時の娘との間に生まれた高義という嫡男がいたのだが 21 歳で突然この世を去ってしまう。 1317 年のことである。それで、急遽家を継ぐことになり、もしそれまで丹波上杉荘にいたのだとしたら、渋々鎌倉に移り、仕方なく元服して、当時の執権北条高時から偏諱を受けて足利高氏と名乗ることになる。(尊氏と名乗るのは、後に北条氏の六波羅探題を滅ぼし、その功績で後醍醐天皇(尊治)から偏倚を受けてから。)この時点で従五位下を授かるので、貴族の仲間入りをしたことになる。尊氏としては、これは、もしかしたら嬉しかったかもしれないが。 本来なら、側室の子、庶子として近習の者達と酒を飲み、和歌を詠み、田楽を楽しみ、気儘にこの世を楽む筈だったのが、当てが外れてしまったのだ。その当時のことだから、いつ自分が足利家を継ぐ立場になるか分からないという漠然とした覚悟はあったと思うが、できる事ならそんなことは考えずに気儘に人生過ごしたい、と思っていたのではないかと思う。 鎌倉は関東随一の都会であったが、京に比べればあらゆる点で田舎であったに違いない。しかも、どうも父貞氏との折り合いが良くない。貞氏から見れば尊氏は、側室の子の割には妙に都会ずれした文系草食男子っぽくて気に食わない。逆に尊氏から見たら貞氏は和歌も詠めず、田楽も楽しめない田舎者丸出しの無教養親父に見えたのかもしれない。こんな感じだから、貞氏が尊氏に家督を譲るのはずっと後になってからのことだ。 だから、何となく鬱屈した日々を送っている。弟の直義は、尊氏もこの弟のことは大好きで大事にしていたが、妙に生真面目なところがあって、長く一緒にいると息が詰まる。遊び仲間という訳にはいかない。 同じ時期に佐々木道誉( 1296or1306 ~ 1373 )が鎌倉にいた。京に近い近江で育った道誉と尊氏は文化的背景が近いので、気が合ったかもしれない。道誉は後に婆佐羅として名を馳せるほどの遊び人。道誉に悪い遊びを教わるにつけ、遊女屋通いも始まる。当時は、現在の大磯の山王町あたりが鎌倉唯一の花柳界として賑わっていて、店が軒を並べ、遊女も多く、鎌倉や腰越から海岸伝いに遊びに来たようだ。 こういう場所には、全国から鎌倉に集まってきた武士たちも通っていただろうから、遊びは勿論だ