投稿

8月, 2020の投稿を表示しています

中先代の乱 窮地に陥った弟直義 太平記其二四

イメージ
  中先代の乱とは 1335 年 7 月に北条高時の遺児北条時行が、信濃で鎌倉幕府再興を目指し挙兵し、鎌倉にいた足利直義をあっという間に敗走させ、後、足利尊氏に奪還されるまでの約 20 日間鎌倉を支配した乱のこと。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって鎌倉を支配したことから中先代と呼ばれているそうだが、どうも後世のこの命名、今一ピンとこない。   それはそれとして、歴史に IF は無い、というが、どうしても IF を連発してしまいたくなる時がある。 IF 中先代の乱が起きなかったら。 IF 直義が北条時行軍を破っていたら。 足利尊氏が鎌倉に下り、後醍醐天皇との確執の末に室町幕府を開く事は無かったかもしれないし、南北朝という時代も無かったかもしれない。   「 IF 中先代の乱が起きなかったら」 中先代の乱の背景は、言わずもがなだが、 ・全国各地に散在していた北条親派の政権奪還の意欲が未だ十分に衰えていなかったことと、 ・北条氏討伐の恩賞を巡って建武の新政府に失望した武家の間に溜まっていた不満の捌け口がどこかで必要だったという事だ。 だから、北条時行が乱を起こさなくとも、関東のどこかで必ず似たような武力蜂起は起こったと思うし、反乱軍は拠点としての鎌倉を奪還しにかかったという流れは同じだったと思う。 従って「 IF 中先代の乱が起きなかったら」の、乱がおきなかった可能性は薄い感じがするが、鎌倉から足利直義を追い出すまでには至らなかった可能性は十分にある。   「 IF 直義が北条時行軍を破っていたら」。 1333 年 12 月、足利直義は鎌倉将軍府主帥に任ぜられた後醍醐天皇皇子成良親王を補佐する形で鎌倉に下り、る。鎌倉将軍府は建武新政府にとって関東の統治機関という位置づけで、直義はその執権という役割を担った。つまり、実質的な統治機関の長という事になる。 直義は、その性格からいって、将軍府に持ち込まれる領地問題などの訴訟沙汰を私情を交えず、一定の基準に従いてきぱきと裁いていったと思われるが、これが関東の武家たちに好意を持って受け入れられたかどうかは疑問だ。 太平記によれば、北条時行が挙兵をすると、たちどころに 6 千の兵が集まり、鎌倉を攻める時には 5 万余まで膨れ上がり、これに対する直義の軍勢は数千程

ボロを出さない尊氏 太平記其二三

イメージ
人々の欲望が、実質的に制限を受けることなく自由に交錯する社会に、洗練された統治は存在しない。 1333 年 6 月の後醍醐天皇による建武の新政開始から 1335 年 7 月の中先代の乱にかけての 2 年間は、武家と天皇を含む公家たちが自らの欲望の実現に向けて、新政に期待し、挫折し、失望し、欲望の実現の為に新たな行動を起こそうとし、その為に世の中の情勢を見極めようとした時期だったと思う。更に利害が一致した者が武家、公家の境を越えて結び合うので、余計複雑な様相を呈することになった。 この時期、最高権力者は後醍醐天皇だが、足利尊氏も後醍醐天皇に対抗しうる権力を実質的に握っていると目されていて、その二つの権力の周りに様々な欲望や思惑が渦巻いていたと言えると思う。 そして、この二つの権力は、決定的に両立しえないという運命にあった。源頼朝の時代なら、西国支配の朝廷と東国支配の幕府、という二大権力の大雑把な切り分けが出来たが、鎌倉時代を通じ、御家人領地の西国への拡大による御家人の全国展開、経済の拡大や貨幣経済の勃興による全国規模の流通が出来上がってしまい、もはや権力は全国支配を前提としないと成立しない状況にあった。 この欲望・思惑が渦巻く地は、勿論、京の都で、「この頃都にはやるもの」で始まる二条河原落書は、この時代の世相を色濃く映しているというのは、こういう事が背景だ。 さて、この時期、当の尊氏は何をしていたのかと言うと、目立ったことは何もしていないと言っても良いくらい、地味に過ごしている。 護良親王との政権軍事部門トップの座を争った権力闘争はこの時期だが、尊氏自身は、贔屓にされていた後醍醐の寵姫である阿野廉子に「護良さんに逆恨みされて困ってますねん。」くらいの愚痴はこぼしに行っただろうが、護良親王はずしの謀略に忙殺されていた感は全く無い。 では何をやっていたかと言うと、京に上ってきた武士たちの着到状に認定の印である証判を書き入れたり、寄進状を書いていたりする。寄進した先は、北野社、清水寺、石清水八幡宮、篠村八幡宮など都周辺に限らず、三島社、富士浅間宮、鶴岡八幡宮など関東の寺社にも及んでいる。 この時期、尊氏は着実に武家の棟梁たる地位を固め、また武家の地盤である関東での勢力を強化していく様に見えるが、尊氏自身、どこまで明確な