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楠木正成がさっさと河内に帰ること 太平記其一二

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笠置山に籠った後醍醐天皇が夢で楠木正成加勢のお告げを受ける、という有名な言い伝えがある。正成は後醍醐天皇のお召しに応じ、河内から笠置山に参じ、「合戦の一旦の勝負で一喜一憂なされてはいけない。正成が生きていると分かっている間はお心丈夫に。いつかは、聖運は開かれると思って頂いて結構です。」と言い残すと、さっさと河内に戻って行った、という逸話に繋がる。 何故、楠木正成は笠置山に残って後醍醐天皇の為に戦わなかったんだろうか。 これを考える上での前提は、まず正成に、後醍醐天皇に絶対的かつ無条件の忠誠を誓う義理は無いという事だ。楠木家はそもそも鎌倉幕府の御家人だったと言われていて、朝廷に仕える武家ではない。 しかし一方、鎌倉幕府は実質的に東国の武家集団を統治する東国政権であって、正成にとって最も大切な事、つまり自分の領地・領民を守り、更に繁栄させるという事から見ると、幕府に敢えて肩入れする必然性は無い。正成はこの時期、既に幕府の統治機構から見れば反体制的な悪人と呼ばれる存在だったから、既存の支配体制に対抗する上で、近畿・中国を中心に悪党勢力の力を梃に幕府と対抗しようとしていた朝廷の力は、正成にとって有利に働くものだったと思う。 楠木家は、水銀の原料となる辰砂の採取や流通で得た経済力を背景に河内の辺りでは知られた悪党だった。悪党である限り幕府との利益は最終的に対立しているわけだから、鎌倉幕府と後醍醐天皇を天秤にかけた場合、正成にとってより大きなメリットを期待できるのは後醍醐天皇、つまり巧く持っていければ、楠木家の経済活動を担保してくれるかもしれない後醍醐天皇による政治支配だったということだ。 そして、一度後醍醐天皇に忠誠を誓った以上は、それを終生裏切ることは無い、というこの時代の倫理観を正成もまた当然の如く持っていた。 そう考えれば、何故、楠木正成は笠置山に残って後醍醐天皇の為に戦わなかったのかは、 一:正成は、実際は笠置山に行っていないから。 既に幕府方の包囲が始まっている笠置山に囲みを破ってまで行くメリットは、正成軍の消耗、もしくは壊滅を考えれば、正成、後醍醐双方にとって無いに等しい。 二:正成が笠置山に行ったとしても、正成の身分、天皇方の戦力、人材を考えれば、そこで天皇方の軍を束ね指揮できる可能性は無く、一武将として戦わざる

笠置寺 雉も鳴かずば撃たれまい 太平記其一一

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1331 年 9 月、京を脱出したが、頼った興福寺に受け入れてもらえなかった後醍醐天皇は、仕方なく笠置山に立て籠もることになる。 笠置山は奈良と京都の県境にあり、山は峻険、北に木津川が流れる要害の地だ。山頂には奈良時代創建と伝わる笠置寺があり、麓からそこに至る道は急峻にして地元の人間でも車を運転することを躊躇うほどだ。 笠置寺にはこんな伝承が残っている。 笠置山に鹿狩に来た 天智天皇の皇子はある日、 崖の先端まで鹿を追いつめた所、皇子が乗っていた馬が勢い余って崖下に転落しかけた。皇子が、「山の神よ、もし私の命を助けてくれるなら、この岸壁に弥勒仏像を刻んで奉ります」と念じたところ、危うく危機を逃れた。そこで皇子は、場所の目印として崖上に自分の被っていた笠を置いて帰るのだが、これが「笠置」という名前の発祥とさる。その後、皇子は再び笠置山を訪れて弥勒菩薩を刻もうとするが、あまりの絶壁のために悩んでいると、天人が現れて見事な弥勒像を刻んだと伝えられる。「笠置寺縁起」では、その後、白鳳十一年( 683 年)天武天皇が笠置寺を創建したとしている。 後醍醐天皇が行宮(かりみや)を笠置山に置こうと思ったのも、地形的有利に合わせて、こんな伝承に自分の行く末を重ねたためかもしれない。 笠置山はほどなく幕府方に包囲され、一月後には陥落。後醍醐天皇は伝承の皇子さながら、危機一髪、笠置山からの脱出に成功するが、数日後には山中で捕縛される。ここでようやく太平記に囲んだ幕府方の武将の一人として、足利尊氏の名前が出てくる。足利尊氏のデビューである。 正中の変では、鳴き声を隠して自らの関与を幕府に認めさせなかった後醍醐天皇も、今回ばかりは討幕 と鳴いて、幕府方に討たれてしまったという事か。 雉も鳴かずば撃たれまい。 ところで、笠置にはもう一つ美味しい魅力がある。ジビエ。 秋のシーズンになると山頂付近にある料理旅館で供される、猪、鹿、そして雉の肉。深まりゆく秋に紅葉を愛でながら、ゆっくり雉肉を焼きながら盃を傾けるのは、この地ならではの楽しみだ。