あっという間の鎌倉幕府滅亡 太平記其一九
鎌倉幕府はあっという間に滅んでしまう。 1333 年 4 月 29 日に足利尊氏が各地の武将に対して討幕の呼びかけを行ってから一月足らず、新田義貞は上野で挙兵してからは 2 週間という短さだ。 4 月 29 日 尊氏、丹波篠村で各地の武将に討幕の呼びかけを行う。 篠村八幡宮に奉納する願文を起草。 5 月 2 日 尊氏の嫡子である千寿王が鎌倉脱出。 5 月 7 日 尊氏、丹波篠村を出立。軍勢 2 万 5 千 . 同日、六波羅探題陥落。 5 月 8 日 新田義貞、上野生品明神で旗揚げ。 5 月 11 日 小手指原の戦い 5 月 12 日 千寿王、新田軍に合流 久米川の戦い 5 月 15 日 分倍河原の戦い 5 月 18 日 新田軍、鎌倉攻撃 5 月 21 日 新田軍、稲村ケ崎突破 5 月 22 日 北条一族、東勝寺にて自害 何故、倉幕府が滅んだのかについては諸説あるが、決定的な理由は分かっていないらしい。 ただ言える事は、大まかに言ってしまえば、北条一族 VS それ以外の武士、という極端な図式が一月の間に出来上がってしまったという事だ。しかも、北条氏及びその側近は全御家人中3%程度を占めるにすぎないので、多勢に無勢どころの話ではない 。 何故こんなことが起こってしまったのだろう。 源氏嫡流足利氏の尊氏が討幕の呼びかけを行ったので、全国の反北条、反平氏の源氏の御家人を含む武士たちが突然北条氏に反旗を翻した・・・なんてことではない。 ただ、西国の武士たちにとっては、御家人の中では最も家格が高く、北条氏との結びつきも強い足利氏が、まさかその北条氏に反旗を翻すとは思ってもみなかったのだろう。その意味で、尊氏の呼びかけと行動は、楠木正成、赤松円心等の西国反幕府武士達の討幕運動よりはずっとインパクトがあった。鎌倉幕府との間の利益相反が顕在化しつつあった西国武士たちは、この機に乗じて自らの利益を確保するというか、むしろ更に拡大しようと考えても不思議はない。その頃の尊氏軍には多くの悪党が含まれてい