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絡めとられる伊勢宗瑞

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  1493 年に伊勢盛時は駿河に下向しますが、この頃盛時は出家して宗瑞と名乗るようになりますので、これからは伊勢宗瑞と表記します。そして、これ以降宗瑞は京に戻ることなく、駿河・伊豆・関東を転戦しながら生涯を終えることになります。   これには主に二つの理由があると思います。   一つ目は、この時代の流れとして、領主が滞在していない領地は次第に在地領主によって浸食・奪取されるようになりました。京や駿河を中心に活動していた宗瑞が所有していた備中荏原も、在地勢力も伸長によって経営が実質的に奪われてしまっていたと見られます。となれば、後見を務めている今川氏親や奉公衆として仕えていた足利政知から得た領地を在地領主として維持することが生活の基盤を築くうえで必須で、宗瑞はこの地の領主として生きていく覚悟を持たざるを得なかったのだと思います。この時期、京から妻子である小笠原政清娘(南陽院)と伊豆千代丸(後の氏綱)を呼び寄せるとともに、大道寺、山中、荒木といった家臣たちも呼び寄せているのも、その覚悟の表れかと思います。   二つ目は、京・駿河・関東・信州にまたがる複雑な抗争関係の蜘蛛の意図にからめとられてしまったという事ではないでしょうか。下の図は、この時代の宗瑞を取り巻く連携・抗争関係をまとめたものですが、この図で見る限り、宗瑞は駿河及び伊豆から離れたくとも離れようがなかったといえます。 まずは、京の細川政元らの後ろ盾を得て足利茶々丸討伐のために伊豆に侵攻しましたが、茶々丸を取り逃がしたために伊豆での茶々丸討伐戦は続いていましたし、茶々丸支援勢力であった山内上杉氏と対抗するため、扇谷上杉氏との連携も必要でした。加えて占拠した伊豆韮山の領地経営にも時間を割かなければなりませんでした。 また、今川氏親の後見、といっても家臣なわけですから、として今川氏の遠江における対斯波氏戦に参戦しなければなりませんでした。 更に、近隣甲斐武田氏の家督争いにも今川氏親が関与していましたので、このための働きも求められていたのです。   こうして、京・駿河・関東・信州にまたがる複雑な抗争関係の蜘蛛の糸に絡めとられてしまった伊勢宗瑞は、備中での生活基盤をほぼ失ってしまったこともあり、否応なくこの地に留まらざるを得なくなっ...