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ひきこもる尊氏 太平記其二七

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  1335 年 8 月、足利尊氏は矢作で弟直義と合流後、瞬く間に北条時行軍を打ち破り、鎌倉を取り戻す。あまりに鮮やかな鎌倉奪還に後醍醐天皇は 8 月末には尊氏に従二位を授け、その功績をたたえた。 一方、尊氏は戦功があった諸将に、朝廷の許可なく恩賞の授与を始めた。京出立時に、尊氏は関東八か国の管領職を後醍醐に要求しこれを呑ませていることから、少しくらい恩賞の授与を独自で行っても許してもらえるだろう、くらいの気持ちで。 しかし、人事と給与は組織支配の要。一介の部長が社員の給与を勝手に決めてしまっては社長が怒るのは当たり前で、 10 月に入ると、後醍醐は中院具光を鎌倉に派遣して、尊氏に対し余計なことしてないで早く京に戻って来いと伝える。 尊氏は当然戻ろうとするが、これを止めたのは弟直義。ライバル新田義貞が中心となって、反尊氏勢力が京への道中で尊氏の命を狙っているという情報をつかんでいるという。 11 月初に直義は諸国に軍事催促状を送り始め、尊氏自身も後醍醐に対し、 11 月 8 日付で義貞追討の奏状を送っている。 だが、奏状が届く前の 11 月 18 日に、尊氏が京に戻らぬことに苛立ち、義貞ら取り巻きの武将たちの諫言に動かされ、更に護良親王の殺害を知ることになった後醍醐は尊氏追討の朝命を出す。 義貞中心に数万(実際は 2 千騎ほど?)の追討軍が鎌倉に向かっていることを知った尊氏は、あまりの事態の急展開に唖然とし、後醍醐に見限られたという失意から、追討軍の迎撃を直義、家宰の高師奏らに任せ、自らは鎌倉扇谷の浄光明寺に引きこもる事になる。 以上が尊氏引きこもりまでの顛末だ。 で、その浄光明寺に行ってみたが、お隣は親戚の上杉家の屋敷だ。この当時から上杉邸がここにあったかどうかは、実は定かではないのだが、少なくとも後の扇谷上杉家の屋敷はここにあったので、その可能性は低くないような気がする。そして意外なほど鶴岡八幡宮に近く、関東を治めていた鎌倉将軍府までは徒歩 30 分ほどだ。身の回りの事は上杉に世話してもらい、その気になれば、簡単に将軍府まで出向けるわけで、 本気でひきこもる気があったのか疑いたくなる。 つまり、勤務先まで徒歩 30 分、隣はコンビニみたいなところで「ひきこもり」だったわけで、これは「ひきこもり」と言うよりは、むしろ「様子見」と言う