鎌倉奪還に向かう尊氏に幕府開府の野望はあったか 太平記其二五
中先代の乱。北条時行五万の大軍に責められて、鎌倉にいた弟足利直義はあっけなく三河の矢作まで敗走した。 太平記によれば、窮地に陥った直義を助ける為に、足利尊氏は東国に向けて軍を進める事を決意、後醍醐天皇に、 ① 征夷将軍(征夷大将軍)の拝命 ② 関東八か国の管領職 の二つを要求する。 後醍醐天皇は②関東八か国の管領職は許すが、①の征夷将軍については関東が平定されてから検討するとして、これを許さなかった。 尊氏としては、五万(多分誇張されていると思うが)の北条時行軍に、手勢の数百に三河足利党を合わせた数千では対抗しようがなく、軍勢を集めるための権威としての征夷将軍と、戦勝後の恩賞の授与を迅速に行うための関東八か国管領はどうしても手に入れておきたいと思ったのは当然だ。 これは、尊氏の関東に足場を作り幕府を開くという構想に沿ったもの、という人もいるが、この時点で、尊氏に幕府を開くなどという野望があったようには思えない。 結局、征夷将軍の拝命に拘らず、また、関東八か国の管領職についても、恩賞として領地を尊氏の判断で与えて良いものかどうか等の要点も詰め切らぬままに、東国に向けて出立したことからみても、兎に角、弟直義を窮地から救い出すことが先決で、野望が仮にあったとしても、それは二の次だったように見える。 それはおそらく、尊氏の弟直義への情の厚さというより、何か、尊氏自身が持っている本能というか、予知能力というか、そういったものに素直に従った結果という事だったんじゃないかと思う。 京出立の時は僅か五百だった尊氏軍は、矢作の陣に着くころには近江、美濃、三河、尾張、遠江の兵が加わり三万に増えていたと太平記は伝えている。数は兎も角として、尊氏軍が雪だるま式に増えて行ったのは、尊氏が朝廷から正式な許しを得ていようが、得ていなかろうが、そんな事は関係なく、当時の武家たちには、こういう騒動に取り敢えず便乗していかなければ自らの領地の確保や拡大は難しいという認識が共通してあった、という事が理由だったと思う。 一方、尊氏にとっては、後醍醐天皇との条件交渉を中途半端に終わらせて出陣したことが、この後の後醍醐天皇との訣別による室町幕府開府への決定的な端緒となって行くわけだから、歴史というものは皮肉なものだ。